廊下の向こうのほうに、明らかに見覚えのある人影が見えた。
「あっ、いたいたー、サキくん」
と、手を振る声でやっと分かった。
「カエデ」
「久しぶりだね」
喫煙所にはちょうどサキひとりだった。彼の、以前はほどけば腰まであった髪の毛は、とても短くなっていた。
カエデは黒いソファに腰を降ろすと、「今平気?」とサキを見上げて訊いた。あいかわらず心配になるほど線が細い。最後に会ったときと、彼の様子はまったく変わっておらず、
「日本に帰ってたんだ」
やはり彼は少しだけアオイに雰囲気が似ていた。
「うん、もうイギリスには戻らないつもりでいるよ。弟子もこっちで働いてるし、私のイギリスでの仕事の用もとっくに終わってるわけだしね」
「日本は変わっただろ?」
「全くだよ。びっくりした」
サキはカエデの横に座ると、ふん、と鼻を鳴らして笑って、
「もっとよくなるかと思ってたんだけどなあ……」
と呟いた。
「戦争以来、派閥が色々増えたんだってね」
「俺は革命派の代表みたいなもんだが、正直、生き辛さはちっとも変わってない」
サキは煙草を指でトントンと叩いて灰を灰皿に叩き落としながら答えた。
「ホタルさんは? どっち?」
「あの人は完全に傍観者。中立だ」
「だろうね……なんか暗くなったね、あの人」
「戦争のあとは全然変わった様子なかったんだけどな。数年前に仕事で事故って脚悪くしてからは、流石にかなりふさいでる」
「兄弟全員一気になくしてふさがなかった男が、ねぇ……」
カエデは苦笑して首をかしげた。サキは笑うに笑えない、という様子だ。なんとも返しがたくて、彼は話題をそらした。
「そういえば、アオイさんの訃報とかはちゃんと行ってたのか? そっちにも」
「うん、かなり早くに来たよ。本人が事前に、私には遺言を用意していたらしいしね」
「なんて?」
「“俺の身に何かあったときには、ハルを頼んだ”って」
サキの眉がぴくりと動いた。
「そうだ、ハル、ハルのこと、なんか知ってるのか? あんた」
「アオイが死んだのももう17年も前になるのか……元気だよ。ハルは」
「まさか! アイツ生きてんのか!?」
サキは思わず立ち上がって叫んだ。これほど時が流れてしまうと、流石に安心より驚きのほうがはるかに大きい。
「生きてる、生きてる。戦争終わってすぐぐらいにちょうど私は帰国してね、それでどうにか探し出して、そのあとはしばらく、彼と私の弟子と3人でイギリスに暮らしていたんだよ」
「どうして今まで何も教えてくれなかったんだ」
「ハルが言うなって言うから」
「ハルが……? どうして」
「知らないよ。今は彼はひとりで兵庫のほうに住んでいるけど、わざと都心から距離を置いて、国営の君やホタルさんに会わないようにしているみたい」
カエデは何故自分が責められているようなかんじになっているのか、と思って少しだけ乱雑に言葉を並べた。
「なんでだ? 戻ってくりゃいいのにさ」
「彼も色々難しい子なんだよ」
「それは知ってるけど……」
サキは信頼を裏切られた気分らしく、かなり落ち込んでしまったようだった。今、そのハルが彼の娘を預かっていると知ったら。カエデはなんとなく言い出しづらくなった。
「君の娘、家出してるんでしょ?」
「ホタルさんに聞いたのか?」
ああ、すっかり父親の顔。カエデは急に必死になるサキの表情を見てほくそえみながら、「そうだよ」と答えた。「あの人なんでもかんでもベラベラ喋りやがって」と、耳馴染みのある悪態が彼の口をついて出る。カエデが仕事でこの会社によく出入りしていた頃と、それは何も変わっていないように感じられて、見る影もなく変わってしまった日本に、たったひとりで帰ってきたカエデには、サキの存在だけで非常に安心できた。
「里紗ちゃん。今そのね、ハルのところにいるんだよ」
「……は?」
サキは彼の顔のほうをじっと見て静止してしまった。飲み込めない、と目で訴えかけてくる。
「なんで?」
「たまたまだよ。里紗ちゃんがアイノコ狩りの男に襲われかけてるのを、ハルがたまたま助けただけ」
「……そんなことってあるのかよ……っていうか、どうして助けたなら家に送り届けてくれなかったんだ?」
「どっか遠くに私を連れてってって……里紗ちゃんに懇願されて、とりあえずハルがその時滞在してた私の家まで一緒に帰って来たんだけど、すぐホームシックになるだろうって思ってたら、意外とそうは行かなくてね、ついにハルと一緒に兵庫まで行くって言い出したんだ……親のこと聞いたってなんとなくしか教えてくれないから、私も今の今まで彼女がまさかサキとシオンちゃんの子だなんて知らなかったんだよ。つまりはハルはまだ知らないってこと。でも今はふたりで仲良くやっていると思うよ、おそらくあの頑固さだと、里紗ちゃんが帰りたくなるよりハルが痺れを切らすのが先のような気もするけどねえ」
サキの顔が青ざめていくのが面白くて、ついつい一気に喋りすぎてしまった。カエデはしまった、と思って口をつぐむ。
「そうか……無事ならいいんだ」
意外にも、サキは青ざめてはいるものの、安堵の笑みさえ浮かべていた。
「ハルの連絡先を教えてくれないか」
「いいよ……私の方から、お父様がお怒りだと伝えておこうか?」
カエデはポケットから携帯電話を取り出しながら訊いた。そして、「あ、赤外線でいい?」と付け足す。「あ、うん」と答えてから、サキも携帯電話を取り出した。
「いや、そんなこと言わなくていい。ハルになら任せられる。別段早く帰って来いなんて言う必要もないだろう」
「そう。分かった」
ハルの番号の送信が済むと、カエデは咳払いしてから、
「その、里紗ちゃんのことなんだけどね」
と、切り出した。
「……やっぱりいいや」
「なんだよ、言ってくれよ」
「君が、っていうか、君とシオンちゃんが、里紗ちゃんに何を求めてるのか、ちょっとそれが気になってさ」
「何、って……」
「彼女は人間と生活することを嫌がっている」
サキの表情が凍りついた。
「私も君の気持ちが痛いほど分かるんだ、確かにアイノコの生活は辛い。血の繋がった実の娘にやらせたいもんじゃない……でも、思想は本人のものだ。残念ながら革命派の夫妻に生まれたあの子は、完全なるアイノコ至上主義派みたいだね。でも、頼むから、君たち夫婦とあの子の溝が広がって、取り返しがつかなくなる前に、お互いを理解する努力をしてほしい。私の二の舞には、決してならないように」
カエデはそこまで言い切ると、逃げるように踵を返した。



「もしもし、シュン」
「はい」
「今日、会社の皆に会ってきたよ。ホタルさんとサキくんに会ってきた」
帰り道に、カエデはシュンに電話をかけた。
「……うん、それで?」
「ちょっと重大発表があるんだけど、聞く?」
「なんだよ」
「里紗ちゃんってね、サキくんとシオンちゃんの娘なんだって」
電話口で数秒間の沈黙が流れ、そのあとに耳をつんざくような、
「はぁ!?」
カエデが想定したとおりのリアクションが返ってきた。
「え、え、ホントに? それホントに」
「運命だよね」
「感動してる場合じゃないだろ、ホントかよ……」
「それがホントなんだよ……あ、近々、サキくんから電話がかかってくるかもしれないから覚悟しといてね。じゃあ」
それだけ言って、電話を切る。
カエデはといえば、クレアの電話番号も、メールアドレスも、家出したあの日に全部変えられて、彼からかけることはできない。
本当は会いたくて仕方がなかった。サキと里紗のように血は繋がっていなくても、彼にとってやはり、クレアは大切な娘に違いない。彼女は今もシュンの近くに住んでいて、彼といつも会っている。今彼女がどうしているのか、それはシュン伝いにいつでも知ることができて、こんなにも近くにお互いが存在しているというのに、壁はあまりにも厚くて、それを打ち破る勇気さえ、今のカエデにはなかった。

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