私の脳裏には、今もあの不気味な姿が焼きついている。食事をしていても、本を読んでいても、たとえそれが恭介と話している最中であろうと、こびりついて落とせないしつこい錆のように、昨日アルバムの中の写真に見た青年の顔が忘れられない。
それは見たこともないような美しい男だった。しかし、それがなぜか私の目には不気味に映った。異様な感覚だった。ただ、人の写真を見ただけなのに、身の毛もよだつ、というような感じがして、私は思わずきゃっと叫んでアルバムを投げ出してしまったほどだ。
あの不思議な感覚はなんだったのだろうか。
「ホラ、るり子、手が止まっていますよ」
母親の声にはっとして、私はフォークに刺したままの食べ物を口に放り込んだ。が、それがなんだかよく分からないままで咀嚼した。
「どうしたんです、今日は日がな一日ぼーっとしていますね」
「なんでもありませんわ」
「あら、大江さんはどちら?」
母は口元をナプキンで拭いながら、部屋を見渡して恭介の姿を探した。
「存じません」
私も彼が今どこにいるのか知らなかった。他の使用人が2人、部屋に立っているので、彼がいる必要はないが、彼がるり子の傍にいないことは珍しかった。
「あの、お母様」
「何?」
「他に、私のお見合い相手の候補はいないのですか?」
私の言葉に、母がぴたりと手を止めて、鋭い眼光でこちらを見た。老いた母の表情は、私が幼い頃に比べて、かなり厳しいものになった。刻まれた深いしわのひとつひとつが、どんどん積み重なって彼女を魔女へと変貌させてしまったかのようだった。
その目に見据えられて、私は何かまずいことを言ったか、と心拍が早まる。
「彼だけよ。今は」
「今は?」
「ええ、もし鶴田さんとの縁談がだめになってしまったら、他に募集しましょう。でも、」
逆接に、私はごくりと生唾を飲み込んだ。そういえば、私はそこで初めて、縁談の相手の名前が鶴田と言うのだと知った。
「私はきっと、るり子と鶴田さんが上手くいくと思います」
母親は優しく微笑む。しかしそれは、私に選択肢がないという事実を語っていた。縁談の話は彼ひとり。断ることもできず、それ以外の選択肢として――恭介など絶対にありえない。
なんて運命だろう。切なくて涙ぐみそうになるのを必死でこらえて、私はそれきり黙って食事を終え、そそくさと部屋を去った。
自分の部屋に入ると、床に投げ捨ててしまっていたアルバムが、机の上にまっすぐ置かれていた。恭介が置いてくれたのだろうか。私は沸き立つ切なさよりも早く、彼を探しに走り出していた。狂ったように屋敷を駆けずり回って、私は愛する人の姿が見えないことに涙を流したが、それでも、誰に訊かれても答えるわけにはいかないし、その名前を叫ぶことさえ許されない。
恭介は二階の客間にいた。
急にドアを開けた私に驚いて振り返った恭介は、どうやらその部屋の時計を修理しているようだった。
「どうなさいましたか? お嬢様、御髪が乱れておいでですよ」
私は後ろ手にドアを鍵を閉めた。こちらに歩み寄ってきた恭介が、指先で私の髪の毛をさらさらと梳かす。私は思わず彼の胸に飛び込んで泣きついた。
「恭介さん、今すぐ私をどこかへ連れ去ってください。ここではないどこか、遠く離れたところにです、お願いよ、もう私、こんなのうんざりだわ」
恭介は私の身体を抱きしめながら、その行為に反して、
「いけませんよ、お嬢様。そんなことをしたら、あなたは全て失ってしまいます。大きなお屋敷も、お父様とお母様との生活も」
と、機械のようになだめるだけだった。
「そんなもの、なんの価値があると言うのです! 何も、あなたには代えられないわ。どうして分かってくださらないの、私、とても不幸よ。アア、不幸だわ」
私がキイキイ喚くと、背中にあった恭介の左手がふっと離れた。そして、両手が離れ、私の肩を掴んで引き離す。そして、キスをした。恭介が屋敷の中でそんなことをするのは初めてだった。
びっくりしたが、私も無論、それを受け入れた。必死にむさぼりあうような接吻。まるで彼は、別れを惜しんでいるようだった。そう感じてしまって、私はいっそう切なくなって、こんな気持ちにさせる彼の存在全てが憎らしいと思った。
こんな惨いキスをしているというのに、運命はさらに私を陥れる気らしい。
ガチャリ。
音がした。その瞬間は、なんだか分からなかった。
確かにドアの鍵を閉めたからだ。
「大江くん、時計の調子はどうだね」
そんなのん気な台詞を口にしながら、私の父が部屋に入ってきたのだ。私はとっさに恭介を突き飛ばしたが、もちろんもうすでに遅かった。



怒号、拳で殴る音。
断片的な記憶だけがぼんやりと残っている。恭介は最後に、「これでよかったのです」と言い残して去っていった。もうこの屋敷にいない。自分から、そうして去って行ったのだ。
彼は私が閉めた部屋の鍵を、キスをする寸前に自分で開けたのだ。
「馬鹿な人……馬鹿な人だわ、あなたは。私のこと、何も分かっていないのよ」
私はひとりでそう呟きながら、ひとしきり泣き続けた。
恭介は、私のことを完全にかばってくれたらしく、母からも父からも、私が咎められることはなかった。恭介は私との、決して短くない交際の日々を全て隠し、自分が一方的にしたことだと言ったのだそうだ。
私の前で、恭介を悪く言う母親の顔を、思い切り張り倒してやりたいような気分だった。
私は全て失ってしまったのだ。
優しすぎた恋人のせいなのか、それとも我侭がすぎた私のせいなのか。
これは誰にもどうすることもできなかった、運命というものなのか。
鶴田翡翠という、あの恐るべき美しさを持った青年とのお見合いは、明日に迫っている。
私の人生は、もしかしたら終わってしまったかもしれない。
もう自分の意思などどこにも通用しない。見合い相手と結婚すれば、母親のように、運命に従属する奴隷になってしまう。私は最早、人ではなくなってしまう。
私は懐にナイフを忍ばせた。いつでも終わらせられるようにだ。そして、届くかは分からないが、恭介に文をしたためた。

“踏み切りを渡って、永久に幸せの世界に行きとうございます。すぐにでもそちらに向かうでしょう。”


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