春になったとはいえ、まだまだ夜は冷える。
私もこの歳になって、夜道を彼と手をつないで、ぶらぶらと、足が疲れるような速度で彼の家へ向かうのも、小言を言われずに済むようになった。
それでもまだ、この道を歩くと、初めてそうして彼の家に向かった日の胸の高鳴りを思い出して、背徳的な興奮がよみがえる。
「恭介さん、今度ね、真知子さん結婚するんだそうよ。お見合いで知り合ったんですって」
私は自分の下駄の鼻緒に目線を落としながら言った。
「お相手はどんな方なんですか?」
恭介がこちらを見て微笑むので、私も彼を見上げて答えた。
「私、お会いしてないから知らないんだけど、真知子さんが言うには、すっごく素敵でハイカラな人だって」
「へえ」
「でも恭介さんのほうがうんと素敵だと思うわ」
彼が気を悪くした風はなかったが、私自身、なんだか言いながら悔しいような感じがしたから、そう付け足した。すると恭介は笑った。細めた目も、子供っぽく釣りあがる口角に、よく似合った八重歯も、全部が素敵で、本当に、真知子の夫も、どこの誰も、見たことはないけれど、彼に勝る人など絶対にいないと信じているのだ。
「何よ、どうして笑うのよ」
惚れ惚れとその笑顔に見入ってしまったのが恥ずかしくて、私は思わず恭介の肩を軽くぶった。
「失礼、いやお嬢様の仰る様が、あまりに可愛らしくて」
「今日の恭介さん、本物の学生みたいね。その帽子」
可愛いなんてふいに言われて照れたので、私はわざとおどけて彼の頭から帽子を取り上げて、自分の頭に乗せた。
「どうです? 似合う?」
「はい、とても」
「次の踏み切りを渡ったら、るり子って呼んでくださる?」
「承知いたしました」
おどけて答える恭介の声を掻き消すように、踏切がカンカンとけたたましい音を立てる。自分でも馬鹿みたいだと思うような笑い声を立てながら、私が踏み切りのところまで走っていくと、恭介がうしろから肩を捕まえて、私たちは通過する電車のすぐそばでキスした。
彼は私の家の使用人のひとりで、それまで考えたこともなかったが、私は彼とは結婚できない。友人が次々と結婚していく。そのほとんどがお見合いだ。女の幸せとは何だろうと、誰もがきっと悩んでいることだろうと、私は初めて考えた。
その日、恭介に言うつもりだったのだが、言えなかった。自分にもお見合いの話が舞い込んだということを。



現実を喉の奥まで飲み込んだまま、夢のような夜は過ぎ去る。
それがずっと息のしづらいところにつっかえていて、私は翌日の朝からどんよりと空気の薄い苦しい空間に寝転がっているかのように、顔をしかめたりあくびを繰り返したりしていた。
踏み切りを越えたら、夜には私を呼び捨てにして甘い言葉で意地悪を並べ立てていた恭介が、ただの使用人に戻っていて、私はまるであの外国の御伽話の主人公にでもなった気分だった。しかし、毎朝魔法が解けてしまっても、私たちは幸せに違いない。それでもこれが永遠に続くわけではないのだから、この朝は私にとって、生まれて初めてのとてつもなく切ない朝になった。
母は色んな殿方の写真を用意してくれているものだと思っていた。しかし、奇妙なことに、母が私に見せてきたのはたったひとりの写真だけだった。私に選ぶ余地はないらしい。
私はそれに更に落胆して、その写真が入った二つ折りのアルバムを開く気にもならなかった。
私がアルバムをベッドに投げて、部屋の真ん中にうずくまって泣いていると、急にドアがノックされて、「はい」と涙声で答えれば、
「お召し物が汚れますよ」
“すっかり使用人”の恭介が入ってきた。
彼が“すっかり使用人”であることにも憤りをおぼえて、私は思わずベッドのうえのアルバムに手を伸ばして彼に投げつけた。
背後で鈍い音がして、恭介が「いたっ」と短く声をあげる。よく見もしないで投げたので、どこに当たったか分からない。私はしゃくりあげながらおそるおそる振り返った。
「ごめんなさい……」
「大丈夫ですよ、足に当たりましたから、大したことありません」
そう答えながら、床に落ちたアルバムを拾い上げて、恭介はその表面を手で軽く払った。
「とりあえずそちらの椅子におかけになったら如何です」
私は促されるまま、机の前の木の椅子を引いて腰掛けた。恭介が私の前に跪いて、アルバムを丁寧に手渡すので、
「いらない」
と刺々しく言ってしまった。
「……お見合いの写真よ。母様はこれしかくださらなかったの。選ぶ権利も、女には選ぶ権利もないのね、悔しいわ」
申し訳なくなって説明すると、恭介は思ったとおりの隠し通せない動揺の表情を見せた。同じ思いを共感できたことに、私は少しだけ孤独な悲しみから解放される。
「私にはお嬢様の幸せをお祈りすることしかできません」
「恭介さん、私の幸せが分からないのですか、アア、お見合いなんて幸せなはずがないわ、私は貴方と一緒にならないといけないんです」
私は恭介に抱きついてわんわん泣き出した。
「るり子」
ふたりだけの世界が、魔法にかかる。
その声に、私は顔をあげて彼を見た。脳みそを揺らすように、頭の中だけで、踏み切りの音がカンカンと鳴り始める。
「それを言うのは俺のほうだよ、俺にはもちろん利益しかないけれど、るり子は果たして俺と結ばれて幸せだろうか。所詮貧乏な使用人の身分なのだよ」
「幸せよ。何を言っているの、絶対に幸せよ」
私は駄々っ子のようにしきりにかぶりを振った。
「見ていいかい。これ」
恭介がアルバムの表紙を私に見せながら訊いた。少し悩んで、
「駄目よ。私、まだ見ていないの」
と答えてそれを手にとった。
「見て、それで会って、それから決めてもいいんじゃないか。俺は止めはしないよ、るり子がそちらを選ぶなら、俺は何も言わない。いいね、俺のことなんて気にしなくていいんだから、よく考えて決めなさい」
私は頷いた。それを見て、恭介は少し足早に部屋を出て行った。
恐る恐る、アルバムを開く。
私は驚いて息を飲んだ。どんなずんぐりむっくりの、冴えない男が写っているのかと思っていたら、意外にも、写真の中にいたのは背筋の凍るような美しい青年だった。


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