五条悟にはおそらく弟がいた。順転術式『蒼』は悟より早く別の誰かが修得していた。術式を見せびらかされたことが気に食わなかったので、その一週間後に悟も『蒼』を習得した。
禪院家の黒髪の視線に気づいた時も、弟は傍にいたように思う。黒髪の男が術式を持たない雑魚であったことははっきりと覚えているのに、それを見た弟がなんと言ったか思い出せない。いや、正確には弟がいたかどうかが思い出せないのだ。
高専入学を目前としたある日、禪院の男が五条を訪ねてきた。男は俺ではない誰かと親し気にやり取りを重ねていた、気がする。恐らくはその相手が弟なのだろうと悟は踏んでいた。
記憶に残る曖昧さを『弟』と呼ぶようになったのはいつからだっただろう。ずっとずっと小さい頃からだったかもしれないし、あるいは三年ほど前、もしくはつい最近のことだったかもしれない。いるかどうかさえ怪しい存在を『弟』と呼ぶのは我ながら薄気味悪いものはあったが、その呼び方が一番しっくりくるのだから仕方ない。
「この教室、机一個多くね?」
高専に入学して一週間。教室の机が三つから四つに増えていた。
片眉を上げて問う悟に、硝子は「はぁ?」と語尾を跳ねさせる。
「悟が置けって言ったんじゃん」
言ってない。否定しかけた言葉を慌てて飲み込む。
「……、そうだった」
覚えのない言動を「やった」と言われるのはこれが初めてではなかった。恐らくは弟も高専に来ているのだろう。自分の分の机がないから新しく置いたのだ。そう思うと本当のことを言うのが躊躇われた。小さく肯定を零す悟に、硝子と傑は目を見合わせる。
「何か企んでる?」
失礼な。
ただ弟かもしれない存在を想っているだけだ。胡散臭い言葉は胸にしまった。
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