「今日って、もう仕事無いですよね?」
「ああ」
「じゃあお先に失礼します」

佐藤花が、そう言って軽い足取りで背を向ける。
彼女のつけている香水が、ふわりと鼻に残る。その後ろ姿を見送りながら、スティーブンは誰にも聞こえぬように息を吐きだした。

 あの少女が、大人の女性になった理由を知っているのは、今この部屋の中にいるなかでは自分だけだ。そう考えて、その言葉が少し下品な意味でも捕えられてしまうことに気が付いて、頭の中で訂正する。
 彼女を少女のように見せていた愛らしさが消え、女としての美しさを際立たせるようになった理由を知っているのは、この部屋の中で彼だけだ。

「花。この後時間を取れないか」

思わず呼びとめてしまったのは、多分、自分の中に後悔だとか懺悔だとか、そんな陳腐な感情があったからだろう。

「何の仕事ですか?」

 不思議そうな顔で返事をされた。女性特有の首筋や、くるりと上を向いた睫がそこにはある。

「いや、仕事じゃないんだ」

 がたん、と物が倒れる音がしてそちらに目を向ける。手から本を落としたらしいザップが、驚愕の表情でこちらを見ていた。それを見て、この場で言うことでは無かったと気がついた。プライヴェートな誘いだと思われただろう。
 花は、その誘いの意味がわかったようで、ひどく嫌そうな顔をした。しかし断ることは出来ないと思ったのか、「いいですよ」と頷いた。その返事に、今度はk・kが手にしていたカップを落とす。

 釈明をするのも面倒で、ならば出ようか、と彼女を促す。彼女とて彼らのぎこちない様子に気が付いているだろうに、欠片も気にする様子を見せなかった。

「美味しいご飯、奢ってください」

 弾んだ声でそういう彼女の、心の奥にできた闇は、一体どこにいったのだろう。そんなことを考えた。




「誤解しないでください」

安い店では無いが、入るのに気が引き締まるわけでもない店で着席すると、口を開いたのは佐藤だった。

「わたしは、スティーブンさんたちのこと、恨んでも憎んでもいません。二人に非は無いし、進められるがままにワインなんて口にした、わたしの落ち度です。だから謝罪も、叱責も、何一つしないでくださいね」

 綺麗な先制攻撃だった。スティーブンの話したいことを全て奪うような、鮮やかなものいいである。その徹底した様子に、しかし負けるわけにはいかなかった。

「謝罪はしないよ。叱責も、君がそう言うならばするわけにはいかないだろうね」
「なら、食事を楽しみましょう」
「だが、そういう訳にもいかない」

 真剣な顔をしたのが効いたのだろう。彼女は水を一口飲むと、続きを促す様に肩をすくめた。

「ザップとのことだよ」

 言われた言葉に、彼女は面喰ったような顔をした。

「もうきっぱり別れましたから」
「その理由は?」
「わたしの彼への気持ちが変わったから。そもそも好きなのはわたしだけだったんですから、わたしが変わったら、もう終わる関係でしたもん」

 少なくとも、今のザップは、そんな様子ではない。別れた女に未練たっぷり、と言った様子なのは、間違いが無いだろう。

「それで良かったのか」

 彼女があの男に首ったけになっていたのを、スティーブンとて知っていた。誰もがやめろというのに、しかしでも、と想いを貫き通したのだ。
 
「他にどうしろって言うんですか」

 低い声で返ってきた返事だった。さあ、美味しいご飯を楽しみましょ。にっこりと笑った少女は、それ以上の質問を許さなかったけれど、しかしスティーブンは、彼女が出されたワインに口をつけなかったことを知っていた。