長編、企画 | ナノ

叶えるあなたと願う私


夏は夕方でもまだまだ明るい。
気温だって高いままだから、気づけば結構な時間になっている。
いつの間にか浜辺からはポツポツと人が減っていて、私たちも、どちらともなくそろそろあがろうと帰り支度を始めた。

更衣室に隣接している小さなブースでザーッとシャワーを浴びながら、ふと先ほど及川に抱きしめられた感触を思い出して一人悶える。
少し焼けて熱を持った顔と身体がさらに熱くなった気がして、温度調節のレバーを青い方にひねれば、急激に冷水になったそれに思わず「ひっ」と声が出てしまった。
あぁもう、何やってんだか。

いくら洗っても身体は砂っぽい気がするし、潮風と日焼けでキシキシする髪は指通りが悪くてすぐにつっかかる。
手櫛ですらこれなのだから、無理にブラシなんて通したら悲惨なことになりそう。
全く泡立たなかったシャンプーを一度流しながら、足元を流れる水に置いて行かれる砂を眺めて眉をひそめた。
やっぱり海も夏も、あんまり好きじゃない。

(…でも、楽しかったな。)

好きじゃない、と感じながら、私は続けてそう思った。
及川と二人きりで来れた海。色々あったけど、そんなの楽しくないハズはない。
自分でも驚くほどに、あっという間に時間が過ぎてしまった。
でも、そんな言葉すら素直に言えそうにない私は、きっとこの後もしかめっ面で彼の前に出るんだろう。

目の前ですっかり曇ってる鏡にシャワーをかけて、自分の顔を確認する。
きっと今日は赤くなっても日焼けで誤魔化せるんじゃないだろうか。
だとしたら、少しくらい可愛らしく笑っていたい。
鏡に向かって小さく笑ってみるが、水滴で歪んだ顔がまただんだんと見えなくなっていった。


『ごめん、お待たせ。』
「んーん。全然待ってないよ。」

私を見てにっこりと微笑みを浮かべた及川の顔も、今日一日でちょっと焼けたように見えた。
そんな小さな変化にも簡単に跳ねる自分の心臓が憎たらしい。

「じゃ、行こうか。」
『ん。』

目を逸らした私に、及川が優しくそう声をかけてくれる。
駅に向かって踏み出した及川の後ろに続くように歩き始めた。
何度か言葉を交わしているうちに、ふと気づけば及川の声は隣から聞こえている。
最初は彼の後ろを歩いていたハズなのに。
あまりにそれを自然とやってのけるから、なんというか、"さすが及川"って感じだった。

「うわーやっぱごわごわ。海は楽しいけど、これだけはちょっと微妙なんだよねぇ。」

そんな声に反応して顔をあげると、並んで歩く及川が自分の前髪を一束つまんでいた。

『そうだよね。さっき髪洗っててちぎれるかと思った。』
「ちぎれるって…。まぁでも男より女の子の方がそりゃ大変だよね。」
『まぁ長さ的にはそうかも。でも及川は、いつもと変わらなくない?』

ククッと笑う及川の揺れる髪は、いつもと同じく柔らかそうに見える。
私がそう口に出して見つめていると、「そう?」と言いながら足を止めた及川が腰を屈めた。
夕日を受けて栗色に光る髪がいつもより近くにあって、私は何も考えずに手を伸ばす。

「どう?」
『んー…ふわふわ。』
「そっか。ん…気持ちいい。」

撫でられる猫のように、及川が目を瞑った。
私は少しの間、わしゃわしゃと手を動かして、その柔らかい感触を楽しむ。
ずっと触れてみたかった、及川の髪−…。

『…−って、わぁ!ごめん!』

無意識のまま、つい勝手に触ってしまっていたことに気づいた私は、思わず大きな声を出してしまった。
慌てて手を引っ込めると、及川が「ちぇ。残念」とイタズラがバレた子供のように肩を竦めた。
何てことをやらかしてしまったのかと、犯人である右手がぷるぷると震える。
それに気付いたのか、及川がクスリと目を細めて、私の頭にポンと手を乗せる。

「はい。これでおあいこだから許してね。跳子ちゃん。」
『な、"許して"って、何?!』
「だって、俺が触って欲しかったからさ。」

そんな風に言いながら、ベ、と舌を出した及川がまた歩き始めた。
私は何も言えなくなって、ふてくされるように下を向きながらまた及川の後をついていく。


結局いつも通りのやりとりを続けたまま、海水浴帰りの人でごった返す駅から電車へと乗りこんだ。
電車内は他の行楽地からの帰りっぽい人たちも乗っていて、かなり混雑していた。
たくさん人がいるとむしろ会話は少なくなる。
私を守るように目の前に立つ及川の胸元が間近にあって、私は息をするのもためらわれるくらいだった。

「跳子ちゃん、大丈夫?」

囁くように小声で聞いてきた及川に、私は小さく何度も首を縦に振る。

「そっか、よかった。…というか、俺はあんまり大丈夫じゃないんだけど。」
『え?何?』

途中で顔をあげたらしい及川の声は、最後はより一層小さくなってて聞き取れなくて。
だから私も小声で聞き返してみたけど、及川の耳には届かなかったのか、特に返事はないまま私達の降車駅に電車がたどり着いた。


外に出れば大分日は傾いてきたけど、それでもまだ明るさと暑さを保っていた。
今日も熱帯夜になるのかな、と思いながら普通に及川と並んで歩いていたが、そういえば及川の家はどこ辺なんだろうという考えに行きつく。

『及川、家こっちなの?普通にこっち来ちゃったけど。』
「んー?まぁねー。」

及川の答えは何となくあいまいで、結局よくわからなくて。
でも否定もしなかったし、文句があるわけではないから別に構わないんだけど。
そう思いながらもじっと及川の方に視線を送っていたら、及川がまたふっと笑った。

「あんまり見つめられると、及川さん穴開いちゃいそうなんだけど。」
『はっ?いや、そういうつもりじゃ、』
「というか跳子ちゃん、まだ時間平気?」
『へ?あ、まぁ。平気、だけど。』

急に話を変えられて、一瞬焦ってしまった自分がバカみたいに思える。
そんな私に向かって及川が、道の先を指さした。

「じゃあ、ちょっと寄り道。付き合って。」

その指の先にあるのは、確か大きい公園だったハズだ。
私が了承の返事をすると、「ありがと」と嬉しそうに及川が公園へと歩みを進めた。


公園では、まだ何人か子供たちが遊んでいた。
ブランコやジャングルジムと言った遊具も充実しているが、ここはフリースペースも多いのが特徴だった。
はっきりとコートのラインは引かれていないものの、スペースの一部にはバスケットゴールがあったり簡易的なネットが張られていたり。
そのうちの一つで、バレーボールを楽しむ子供たちの姿が見てとれた。

「懐かしいなぁ。」

及川がコートの方を見つめながら、そう呟いた。
運動と縁のない私には、あまりなじみのない場所だったけれど、及川にとっては違うみたいだ。
自然とその子供たちの様子を見守っているうちに、捕り損ねたボールがテンテンとこちらに転がってくるのが見えた。

子供たちの一人がボールを追いかけながら、私たちに「すいませーん」と手を振る。

及川がそれに答えるように足元のボールをヒョイと拾って、徐に指の上でシュルルとボールを回した。
あまりの器用さに私は思わず見とれていると、駆け寄ってきた子もそれを見て「すげー…」と小さく呟いた。

「あ、ごめんね。ボール返すよ。」

男の子に気付いた及川が、にっこりと微笑んで男の子にボールを手渡した。
受け取った子は何も言わずにペコリと頭をさげて、コートの仲間たちの元へ走っていく。
その背中をじっと見つめながら、及川が「懐かしいな」ともう一度独り言のように言った。

「…夏が好きな理由が、もう一つあったよ。」
『え?』
「日が落ちるのが遅いから。小っちゃい頃なんてさ、暗くなったら帰りなさいって言われるじゃん。でも夏はいつまでもボールが見えたしね。岩ちゃんたちと、暗くなるまでずっとバレーボールできたからさ。」

懐かしさに浸るような、でもどこか寂しそうに聞こえた及川の声。

きっとずっと小さい頃から追いかけてきたボールを、思い出しているんだろう。
そして、一緒に隣で走り続けてきた岩泉くんたちのことも。

3年の夏。高校生活最後の夏。
及川のバレーボールは、きっとこれからも続いて行く。
それでも、今のメンバーでやるバレーは、今だけだ。

「俺さ。」
『?』
「バカばっかりやってきたけど、俺、結構今の自分好きなんだよね。」

急にふっと緩んだように、及川がそんな言葉を口にした。
私は何て返事をしていいかわからず、そんな及川の横顔に視線を向ける。

「まぁ?そりゃこんな非の打ちどころのない自分をそうそう嫌いになんてなるはずもないけどさ。」
『…ムカつく。もっと奥ゆかしく謙虚になんなさいよね。』
「えー?」

及川の言葉から緊張感がなくなって、私はふぅと脱力するように息をついた。

「でも、これでも一時期ちょっと荒れてたりもしたんだよねー。若かったし?」
『え?及川が?』
「そ。そんな悩みを抱えるいたいけな俺に、岩ちゃんがどうしたと思う?」
『…ごめん、一つしか浮かばない。』
「だよね。ま、もちろん鉄拳制裁あるのみだよ。いや、あんときは頭突きだったかな?」
『ぷっ。岩泉くんらしすぎ。』

容易に想像できる二人のやり取りに、私はついふきだしてしまう。
ずっと変わらない、そんな特別な関係を羨ましく思う気持ちももちろんあるけれど。
くすくすと笑い続ける私を見て、ふっと及川が柔らかく笑った。

「ま、そんな風に手の届かない才能に打ちひしがれそうになったりもしたけど。でも俺には俺だけの積み重ねてきたものがあるしねー。」

口調や表情と違って、どこか違う色合いを見せるその言葉は、冗談ぽくもあり、でもすごく真剣な色を帯びていて。

【−及川は、天才なわけじゃない。っつっても、俺から見れば化けもんみたいなもんだけどな。】

いつだったか、貴大くんがそんなことを言っていたのをふと思い出す。

及川は、きっとずっと何かと戦ってきたんだろう。
単純に"試合"とかそういうものじゃない、私には計り知れない何かと向き合い続けているのかもしれない。


夏の夕暮れ。日暮の鳴く声がカナカナと響き始める。
西に沈んでいく濃いオレンジ色の太陽に照らされる及川の横顔は、目を見張るほどキレイで。
肌に触れる空気はじっとりと暑いのに、何故か私はゾクリと鳥肌がたちそうになった。
ゆっくりとこちらを振り向いた及川と目が合い、私は何も言えないままただその姿に思わず息を飲む。

「夏、だねぇ跳子ちゃん。」
『あ、うん。…夏だよ。当たり前じゃん。』
「俺、夏が好きなんだ。」
『うん。何度も聞いたよ。』

何て中身のない、意味のない会話。
でもなぜかすごく大事なことを伝えられている気がする。−きっと気のせいなんだろうけど。
そんな風に思うのは、及川がどこまでも真っ直ぐ前を見つめているからだ。

「まぁでも、夏休みはあんまり跳子ちゃんに会えないからそこは考えものかなー。」
『っ!』
「あ、水着姿が見れたのはよかったけど。」
『あぁもうっ!人がせっかく今−、』
「えっ?せっかく、何?」
『〜っ何でもない!』

危うく変な言葉を口走りそうになって、私は慌てて及川に背を向ける。
それなのに及川は、追撃の手を緩めようとせずに私の顔を覗き込んだ。

「"せっかく惚れ直したのに−"、とかだと及川さん大変嬉しいんですけど?」
『惚れ直…、違うから!"せっかく見直しかけたのに"だから!』

言った後に"しまった"と口を噤むが、もうそんな仕草はすでに手遅れで。
及川の耳にはしっかりと聞こえてしまったみたいだ。

「うーん。希望とはちょっと違ったけど。」
『な…、』
「でも嬉しいよ。ありがと。」

目の前で優しく弧を描く目。また違う笑顔。及川が、眩しい。
私も目を細める。でも笑ったわけじゃない。
目がチカチカして何故かちょっと泣きそうだったから。

風が吹いて、私と及川の髪をさらっていく。
あんなに潮風を浴びていたのに、及川の髪はやっぱりふんわりと靡くから。
なんだかズルイって思った。

私なんて、髪だけじゃなく、心も軋んでいる気がするのに。
これは夏のせいじゃない。及川のせいだ。

(頑張って。ううん、頑張ってるのは知ってるんだけど。でも、今の皆の姿をずっと観ていたい。)

ドキドキと高鳴る心臓の隅っこで、ただひたすらに君の幸せを願った。
あなたの努力と願いが報われることを。

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