長編、企画 | ナノ

10:00 p.m.



ガチャリ

部屋の扉を開けた蛍くんに「よっ」と片手をあげて挨拶をすれば、みるみるうちに彼の機嫌が急降下していくのが目に見えてわかった。

「…何やってんの、跳子。」
『おぃっすツッキー。今日も部活お疲れ様〜。』
「…ツッキーって呼ぶな。」

自分の部屋なのに彼はドア口に立ったまま私を見下ろしていて。
と言っても小さい頃から睨まれまくってきてるので、もうすっかり慣れちゃってるんだけど。

『お風呂あがりでポカポカなのに、視線は随分冷やかですねぇ。』
「…その話し方も何なの。余計腹立つんだけど。」

彼の眉間の皺がより一層深まってしまうが、言っても無駄だと思ったのか深いため息を一つついて、ようやく部屋に足を踏み入れた。
ソファに腰を落とした蛍くんが、タオルで髪の毛を拭きながら口を開く。

「また勝手に入ったの?」
『勝手じゃないよ!おばさんに入れてもらったもん。』
「…母さんを味方にすんのやめなよね。」

お隣に住む月島家とは、昔から親同士仲が良くて、家族ぐるみのおつきあいをしている。
特に次男坊・蛍くんと私は年も同じだ。(私達の仲が良いかは別として。)
クラスこそ違えど、高校も同じ烏野高校に通っている。

「−で、何。」
『あー…、数学の宿題が出ました。』
「だから?」
『全面降伏。お手上げ状態です。』

話しながら、蛍くんが髪を拭くのをただボーッと見つめていた。
メガネのない顔は久しぶりに見る。
短い髪の毛はもうだいぶ乾いているみたいだ。
ふんわりと柔らかそうなそれに触りたいなぁなんて思うけど、そんなことをしたら睨まれるだけじゃすまなそう。

「…だからってこんな時間に普通部屋に来る?」
『それは申し訳ない。でも蛍くん、部活で遅いじゃん。』
「ならおじさんかおばさんに教えてもらいなよ。」
『いや、二人とも私の親よ?数学なんて教科書開く前に"進学クラスの蛍くんに教えてもらえ"と。』

確かに時間はもう22時になろうというところ。
迷惑なのは承知の上だが、うちの親も遠慮はないし、月島家のおばさんも快く受け入れてくれちゃうし。
床に座る私と一瞬目を合わせた蛍くんが、はぁーっとすっかり乾いた頭を抱える。

「…跳子のおじさんもおばさんも何考えてるんだか…。」
『あ。明日お母さんがショートケーキ作るって言ってたよ。』
「……ノート、どれ?」

よし。さすが伝家の宝刀"おかんのケーキ"。
すっかり胃袋を掴まれている蛍くんが、しぶしぶと言った感じでのっそりと腰をあげた。


『−っ解けたぁ!すごい!蛍くんありがと!』
「そんな大した量じゃなくてよかったね。次からは自分でやんなよね。」
『…。』
「返事しなよ。」

ふぃーと逸らした目を、彼は見逃してはくれない。
「跳子」と名前を呼ばれても逸らしたまんまでいたら、思いっきり片頬を伸ばされた。

『イタイイタイ!だってこれから毎週このくらいの宿題出すって言われてるんだもん。』
「は?ていうかそれって毎週来る気?」

無理矢理視線を合わされて白状した私の言葉に驚いたのか、蛍くんがパッと手を離して珍しく少し大きな声を出した。

わぁ、超嫌そう。長いつきあいの中で1・2を争うしかめっ面だ。

しかし簡単に見放されるわけにもいかない。とにもかくにも数学は敵だ。
だって、数学さえなかったら進学クラスで蛍くんと同じ時間を過ごせたかもしれないのに。

『へへへ。旦那ぁ、肩でも揉みましょうか。』
「……。」

揉み手ですり寄ってみるも、彼のしかめ面は直るどころかますますひどくなる。
…まぁそりゃ部活で疲れているだろうし当然だろうけど。
今日教えてもらえただけでもラッキーだったんだ、と諦めかけた時、蛍くんにグッと手を掴まれた。

「…じゃあやってもらうけど。下手だったら教えるのはなしね。」
『へ。』
「肩。ちょうど風呂あがったとこだし。」
『わぁっ、やりますやらせていただきます!何だったら全身やります!』

おぉぉ、これはもしかしてすごいチャンスじゃないか!
昔から肩もみでお小遣い稼ぎをしていたから、マッサージにはちょっと自信がある。
「ちょっと」と渋る蛍くんをベッドに無理矢理寝かせ、腰をまたいだ私は気合を入れて腕まくりをした。



『凝ってますねぇー。この辺とかどーですか?お客さん。』
「…その話し方、やめて。」

ノリでやってみても蛍くんは相変わらずスーパードライ。
結構力を籠めてやってみても何の反応もなくて、ちょっとした悔しさからイタズラ心がふつふつと湧きあがり、試しに思いっきり体重をかけてみた。

「全然痛くありませーん。」
『うそっ。こんなに思いっきりやってんのに?!(…どんだけ身体ジジィ化してん…)』
「…何か言った?」
『イイエ。』

ぶんぶんと首を振って、私はもう一度真面目にマッサージに戻る。
実際問題、結構疲れてそうだ。
背中から腰にかけて入念にほぐしながら、私は「そういえば」と蛍くんの後頭部に話しかけた。

『明光くんは次いつ帰ってくるの?』
「…知らないよ。」
『えー、知っといてよ。まぁいいや。後でおばさんに聞いてみよ。』
「跳子は兄ちゃ…兄貴の事好きだよね。」
『まぁ昔っからずっと優しくしてもらったからね。』

そうは言っても別に"そういう好き"なわけじゃないことは私も彼も知っているハズ。
小さい頃からの刷り込みのようにずっと明光くんにまとわりついていた私に対し、嫌な顔一つもせずに優しくしてくれる彼にひたすら懐いていただけだ。

…小学校くらいまではそれが恋だと思っていたけど。

あの頃を思い出して一人でクスリと笑えば、顔だけ私を振り返る蛍くんと目が合う。
…蛍くんがふてくされたように見えるのは、私の願望からだろうか。

「…もういいよ。」
『ん?終了でいいの?ちょっとは楽になった?』

低い声で言った蛍くんの言葉に、私は手を止める。
少しは蛍くんの役に立てたのなら嬉しいけど。

「…なったけど、なってない。」

しかし、素人では残念ながらそう簡単にはうまくいかないらしい。

ため息をつく私の下からむくりと抜け出して起き上がった蛍くんが、ベッドの上で座り込む私の腕を掴んだ。

軽く引かれただけでも柔らかいベッドの上はバランスがとりづらくて、そのまま蛍くんとの距離が縮まる。
顔、が近い。

「…跳子。そもそもそんな恰好で来るとか何考えてんの?」
『は?いやだって…、』
「次そんな恰好で来たら、帰れるなんて思わないでよね。…まぁどんな格好でもそろそろ限界かもしれないケド。」

どういう意味かわからないなんて思うほど鈍くはないつもりだけど、どうせだったらもうちょっとちゃんと言葉にして欲しいと思うのは私の我儘だろうか。

何か言いかえしてやりたかったけど、フッと笑った蛍くんが、まぁそれはそれは悪い笑顔で。
今日ばかりはメガネという防御壁もなくて、私はまともに直撃を食らってしまった。
その表情に見据えられては、ゴクリと喉を鳴らしてただただ固まることしかできない。
こんな妖艶な雰囲気を持つ月には、悪魔もきっと形無しだろう。

『〜〜っ!』

私はようやく動いた身体で蛍くんのメガネに手を伸ばし、至近距離にある彼の顔にそれをかけた。

「…ぷっ。跳子真っ赤。」

くっそう。見えるようになってもそれはそれで困るのは私か。

そっちがその気なら、気付かないフリできっと次も同じような服装で来てやる。
だって私だってもうギリギリなんだから。


月が微笑む22:00ちょうど。
意地の張り合いもそろそろ限界。きっと決着は来週のこの時間に。

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