二.それは有毒の罠

とある手違いで地獄に住まうのを余儀無くされた名字名前は、思わず後ずさった。

「貴女、私の嫁になりなさい」
「……え、えっと、今何と?」
「私と結婚しなさい!」

鬼灯のあまりの気迫に名前は言葉を詰まらせる。
彼は名前の両手を固く握りしめながら愛の言葉を息巻いて囁いてゆく。

「今後の生活は全て私が面倒を見ます、絶対に幸せにします」
「あ、あの、わ、私……」

プツン。そんな音が脳内に響き、その瞬間名前は意識を失い鬼灯の胸に倒れ込んだ。

「あ、失神した」


◇◇◇


鼻をつくような消毒薬の匂いで名前は目を覚ました。冷たい物でやや乱暴に顔を拭われている感覚に徐々に意識が覚醒していく。

「う………」
「あ、起きましたね。先程気を失って倒れられてしまったので医務室まで運ばせてもらいました」
「それはご迷惑を…」
「いえ、そんなことありませんよ。気分はどうですか?起き上がれます?」
「あ、はい………」

低く優しい声音に、名前はすっかり安心しかかっていた。彼の端正な顔を形作る切れ長の瞳がじっと自分を見つめており呑気に惚れ惚れしかけていたが、そこで名前は思い出したのだ。
彼が先程、自分に向かって「一目惚れです」「嫁になりなさい」なんて愛を謳っていたことを。

気がついたら此処は地獄――なんて最高にアンビリーバブルな事態の渦中にも関わらず、名前の胸中には別の思いが渦巻いていた。
角が生えて耳も尖っている容姿からして彼は明らかに人間ではないので、あくまで性別はまだ暫定的"男性"だけれど。
名前にとって男性からあんな熱烈な告白と求婚を受けたのは初めてだった。
だから今、こんな真っ赤な顔になってしまっているのだと自分に言い訳した。

「随分顔が赤いですけど、熱でもあるんですか?」
「え!?大丈夫です、すこぶる元気です!」
「ならここまで至った経緯を今すぐ話しなさい」
「え!?何この人、扱い急変した!」
「落ち着いたら思い出せるでしょうが。とっとと話せ」
「ぷぎゃっ」

デコピンよろしく鼻ピンをくらい、名前は潰れた蛙のような声をあげた。鬼灯としては若干手加減したが彼女にとっては威力は十二分だ。

「私は此処に来る前……」

赤くなった鼻を擦りながら、名前は記憶を手繰り話し出した。


◇◇◇


享年83歳。祖母は安らかに旅立ちました。
事故で父母を亡くした私を、幼い頃からずっと面倒を見てくれていました。

「おばあちゃん、今までありがとう。向こうでゆっくり休んでね」

納骨も終わって、しばらく祖母のお墓の前にいたんです。

「はーい二名様ね。アレ、こっちのおばあちゃんはもう大丈夫か。そこの子、さっさとついてきて!」

甚平らしい服を着た体格の良い人が現れ、私の手を引いていって、気付いたら河原にいたんです。
その時にはもうその人はいませんでした。
もしかしたら途中ではぐれたのかもしれません。

そして唐瓜くんと茄子くんに出会って、今に至ります。

「………とまあ、こんな感じです」
「成る程。その鬼の顔は覚えていますか?」
「え、あれも鬼だったんですか?すいません覚えてないです…」
「ふむ………」

名前の証言から事件が進展することは無さそうだ。
お迎え課や奪魂鬼たちの怠慢か。一度記録課にも出向き彼女の記録も洗い出さなければならない。
どうやら今回の事件、中々面倒な案件の匂いがする。

「…話を変えましょう。貴女のこれからの生活のことです」

びくり、と名前が不自然に身体を震わせた。
名前はごくりと唾を飲み、腹を括ろうと覚悟を決めた。

「は、はい」
「お嫁さんのフリで結構です。」

顔色一つ変えずに言い放たれた言葉に、名前は目を見開いた。

「それで良いんですか?」
「はい。私含めて地獄側は、貴女の今後に対して最大限の支援がしたい。でもそうするにはそれなりの大義名分がいるのです。公の場で私のお嫁さんということにしておけば何かと融通がきくので貴女も過ごしやすいと思います」
「………」

二つ返事は避け名前は脳内で考えを巡らせる。

彼は確か、閻魔大王第一補佐官と言っていた。
補佐官って秘書のような役職なのか。何にしろ、結構な位には違いないだろう。彼に保護してもらえるなら名目上は嫁でも此処での生活は安心かもしれない、と。

しかし突然訳の分からない世界に来てしまい、頼る者おらず、右も左も分からない状況下。今後の世話を一切合切背負ってくれるという甘い甘い条件は名前の正常な判断力を著しく低下させていた。

地獄側の立て続けのミスにより、まだ十分に余生のある名前を此方に招いてしまったというのに、そしてそれを彼女に謝罪したというのに。

何故わざわざ鬼灯の嫁ということにしてその事実を包み込もうとしているのか。

「歩けます?」
「はい」
「では、私の部屋に案内します。」

偶然にも地獄で一番恐ろしい鬼神の心を奪ってしまい、差し伸べられたその手をとってしまった名前には、もう逃れる術は無い。
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