「失敗しました」

 かすかな電車の走る音が聞こえる。始発が動き出している。
 早朝、駅までの道すがら、表情筋を動かさずに彼女が言った。俺の隣を歩く彼女の声も、表情も、もうすっかり「パン屋の南ちゃん」だった。夢から覚めたような気持ちになる。
 でも、俺は結局一睡もしてないから、夢じゃない。……はず。

「わたし、橘くんから、『俺の友だちの成海くんがスランプだから、元気づけてやってください!』って言われてたのに、まさか酔いつぶれて爆睡して成海くんの部屋にお邪魔してしまうなんて……ほんとうにごめんなさい」
「あはは……」

 ここにはいない橘の、笑顔で親指を立てている姿が脳裏に浮かんだ。苦笑しながら、空がだんだんと明るくなってゆく。
 俺はふと、進学のために地元を離れる日に乗った、朝早い電車での風景を思い出した。

「彩雲って、知ってますか?」

 雨の気配は見当たらない白む空を見上げながら、俺は話す。

「幸福のしるしって言われてる、虹色の雲。僕、一度だけ見たことがあるんです」

 地元を離れる電車の中で、窓から、虹色の雲を見た。
 乗客の少ない車両で、静かに息を呑んだのを覚えている。でもあとで調べたら、実際にはそうめずらしくもない現象らしい。晴れた日に、空を見上げてみれば目にできるかもしれない程度の。
 そして今になって思う。俺、ずっとこんなふうに明るい空を見ていなかった気がする。ずっと、明るい場所を見ようともしないで、キャンバスだけに向かっていたような気がする。
 たとえば高校時代、あの頃は、べつに「何か」になるために描いていたんじゃなかった。
 ただ、描いていた。
 「描きたい」から。
 汐里さんが美大の文化祭で見たという、夕暮れの海の絵。あれは、俺が地元を離れて美大に入ってから、はじめて自分の意思で描いて、完成させた絵だった。
 汐里さんは言った。自由になったはずなのに、少しもそんな気がしない、と。そんな言葉に、俺は既視感を覚えたのだ。
 少し前の俺は、美大に行けば今の自分よりもっと自由に描けるのだと疑っていなかった。それなのに、現実の俺はちっとも変わらない。それどころかちっとも自由に描けなくなっていく。
 俺は、自分の力に、周りの力に、焦って、こわくて、ただただ真正面しか見られなくなっていたのかも。

「……汐里さん!」

 視界の先に、駅が見えてきた。
 たどり着いてしまう前に、言わなければ。

「あの、俺の、……あっ、ぼ、僕の、僕の絵を見てくれて、ありがとうございました。それと……元気、もらいました。ほんとうにありがとうございました」

 もっと言いたいことがあるような気がする。ほんとうに言いたいこととは違うような気がする。だけどもう、これが今の俺の限界。
 ややあって、汐里さんは言った。

「わたしね、子どもの頃、パン屋さんになりたかったの」
「……エッ?」

 汐里さんが小さく、ふふ、と笑う。

「ツナサンドは、わたしが作ってるの。いつも買ってくれてありがとう」

 そうしてそのまま、彼女は改札を抜けていった。朝の光に吸い込まれるように。
 水色の声が、俺の中でいつまでも残った。

 あの頃の自由とは別たれてしまったのかもしれない。思い描いていたものとは違うかもしれない。それでも。
 絵を描こう。部屋に帰ったら、すぐに。
 俺は、汐里さんの横顔を描きたい。風景以外をはじめて描きたいと思った。そこにたしかに生きている彼女を、俺は描きたい。
 まぶしい。視界いっぱいに明るい空が見えている。あの虹色はどこにも見えない。
 それでも、白く白く、自由に似た色だ。



あの日の彩雲を掴んで、僕らは自由と別たれる
ウォンマガ夏フェス2015』寄稿作品
15.11.3


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