夜に風呂に入って、体を二回洗い、頭は三回洗った。翌朝もシャワーを浴びた。心身共にサッパリした俺は今、繁華街の座敷居酒屋にいた。

「成海ぃ!おまえが来てくれて俺は嬉しい!今日は飲めよ!スランプなんか忘れろ!」

 すでに酔っているようなテンションの橘が、俺のグラスにガツンとジョッキをぶつける。そして誘っておきながら、すぐに賑やかなグループのほうへ去っていった。嵐のようだ。
 今日は大学は休みだ。それでなくても絵を描く気力がなかった。絵を描くことを抜いてしまうと、俺は清々しいくらいに何も趣味がない。部屋で一人腐っているよりかは、橘に言われた通り、たしかに気晴らしぐらいにはなるかもしれないと思ったのだ。
 しかし、慣れない。橘は、「みんなうちの美大生だから!」と言っていたけれど、ほとんどがろくに話したこともない顔ぶれで、なんだか心もとない。やっぱり、こういう雰囲気は苦手だ。こんなふうに若者たちが笑い合いながら集まっていると、空間はたちまち生き生きとして、鮮烈な色になるから、なんだか俺一人だけが無彩色みたいに感じる。
 流れで最初に頼んだビールを、慣れない空気に肩をすぼめながら口につける俺。

「隣、いいですか?」

 凛とした響きの声にはひどく聞き覚えがあった。顔を上げた俺は、グラスを持ったまま完全に固まってしまう。
 いつも素敵なショートヘアの上に巻いている三角巾も、エプロンも、名札もない。だけど俺の隣に腰を下ろした彼女は、紛れもなく「パン屋の南ちゃん」だったのだ。

「今晩は。ツナサンドのお兄さん」
「な、な、なん……あっ、ここんばんは」

 なんで、南ちゃんがここに?
 そんな俺の心の声がそれほど表情にむき出しになっていたらしく、南ちゃんが自ら丁寧に説明をしてくれた。

「わたしは学生ではないんだけど、あそこの帽子の……橘くん?に誘われて。気楽な飲み会なので是非!って言うから、お言葉に甘えてお邪魔しました」
「あ、そうなんですか……って、ええっ?橘に?」

 そうなんですかと言っておきながら、まったくわけがわからない。
 半ば助けを求めるように、離れた場所にいる橘に視線を送ったら、うまいこと通じたらしい。橘はこちらを振り返ると、なにやら口をパクパクと動かした。
 が、ん、ば、れ、よ?
 無理だって!というか、「頑張れ」って何を!?
 俺も口をパクパクさせつつ、首を横にぶんぶん振る動作まで付け加えたが、橘のやつはそれらを笑顔で親指を立てるという動作であっさりスルーしてくれた。白目をむきそうになる。
 しかしまあ、橘のフットワークの軽さは、ほんとうに尊敬する。俺にはないものだと、心底思う。
 橘の身軽さは、まさに彼の描く絵そのものだ。油絵独特とでもいうような、重ねに重ねた色。それでも今にも踊り出しそうな身軽さがあって、見ていて楽しくなる。そんな絵を、橘は描くのだ。
 俺には、到底描けないものを。

「スランプなんですか?」

 南ちゃんの声ではっとする。
 グラスビールに口をつける南ちゃんが、俺の隣にいる。夢じゃない。
 そうだった。俺は気晴らしに来ているのだった。ところで今、彼女は何て言った?

「なっ、なんで知ってるんですか?」
「橘くんから聞いたので」

 ええー、あいつなんで南ちゃんに俺のこと話してんの?
 すると、空になっていた俺のグラスに、南ちゃんが瓶ビールを勢いよくドボドボと注いだ。

「飲みましょう」
「エッ?」
「大丈夫です、わたしけっこう強いから。今夜は付き合います」
「いや、あ、あの〜……俺はあんまり酒強くは……」

 どうしよう、予期せぬ展開だ。
 水色の声。表情筋を動かさずに、手もとはテキパキと動く。俺の隣にいるのは、たしかに「パン屋の南ちゃん」だ。
 そうなんだけど、そうなのか?あれ?
 もう何がなんだかわからなくなる。

「はい、乾杯」
「あ、はい、乾杯……」

 二つのグラスがぶつかる。
 パン屋のカウンター越しよりも、すぐ隣にいる彼女が遠く感じるのは何故か。
 ああ、橘ごめん、と心の中で謝罪する。俺、ぜったい頑張れない。



 誰がこんな展開を予想しただろう?
 南ちゃんが寝ている。俺のベッドで。
 その姿をまともに見られずに、かといって、無責任に部屋から出ることもできない。そんな俺は、俺の部屋の俺のベッドで、酔ってすっかり爆睡している彼女から背を向けて、所在なく床に体育座りになって、犬のように傍らにいる。
 どうしてこうなったのか?
 最初の座敷居酒屋のあと、二次会へ行く面々を尻目に、何故か俺は南ちゃんと二人で飲み直すことになった(そのとき橘が笑顔で親指を立てている姿を確認した)。そして、結果的に酔いつぶれて、すっかり歩けなくなってしまった彼女から住んでいる場所を聞き出すこともできず、なんとかかんとかアパートの俺の部屋まで運んだのだ。ちなみにホテルみたいな場所に入るという発想はそのときなかった。
 あったとしても、俺には無理だ、きっと。
 膝に顔を埋めて、うずくまる。
 もう、いろいろといっぱいいっぱいだった。頭が。胸のあたりが。
 このまま眠ってしまいたい。だけど、そうしたら、すべて夢になってしまいそうで……。



 ほぼ南ちゃんに連行されるかたちで、べつの居酒屋に移動し、そこで俺は彼女の話を聞いた。
 南ちゃんは酒の力か、それとも俺が知らなかっただけで普段からそうなのか、とにかく饒舌だった。俺は、とりあえず頼んだウーロンハイに口をつけるのもそのうち忘れて、彼女の話を聞いていた。
 南ちゃんは、もともと都内の会社に勤めていたこと。そこでの人間関係があまりよくなくて、ストレスで体を壊してしまったこと。今は実家暮らしであること。美大のパン屋は、母親も勤めていて、求人を探していたところ、母親の勧めもあって働くようになったこと。実家に、今年十三才になるシロミという名前の白い犬がいること。シロミが、俺に少し似ているらしいこと。
 南ちゃんは、汐の里と書いて、汐里という名前だということ。

 深夜の明かりで眠る彼女の呼吸が、まるで潮騒のように聞こえる。少し首をひねって見た汐里さんは、横顔だった。
 俺は眠ってしまう前の彼女の声を、思い出す。

「仕事も辞めて地元に帰ってきて、自由になったはずなのに、なんだか少しもそんな気がしなくてね。実家にいても気持ちが塞ぎがちだった。そんなとき、気晴らしにって、母と美大の文化祭に行ったの。そこでわたし、夕暮れの海の絵を見た。……うまく言えないんだけど、見ていたらなんだか、すごく涙が出たの。自分でもびっくりするくらい、自然に涙が出たの。それでね、わたし、ああまだ大丈夫だって思ったの」

 成海くん、と、そのとき汐里さんははじめて俺の名前を口にした。
 それなのに、まるで彼女はずっと俺のことを知っていたような響きに聞こえて、俺は、とうとう何も言えなくなった。

「よく絵の具まみれでパン屋に来てくれるあなたのことを、ある日帽子の橘くんが『成海』って呼んでいたからびっくりした。ずっとわたしは、あの絵の作者の『成海潤』くんに、ありがとうって言いたかったから」

 成海くん、あの絵を描いてくれて、ありがとう。
 汐里さんはやわらかい表情でそう言うと、安心したように長い息を吐いて、そしてそのまま目を閉じた。


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