地元を離れる電車の窓から、虹色の雲を見たことがある。





 腹、へったな。
 黙々と、目の前のキャンバスへ筆を叩きつけながら、ある瞬間にふっと自覚する。
 うん、俺、今確実に腹へってる。
 空きっ腹に油の匂いがこたえる。空腹なんてものを理解できるのだから、集中力なんてものはとっくに切れている。今何時だろう、という俺の思考と同時に、首を絞められたニワトリのような、とにかくヒドイ声で腹の虫が鳴いた。
 筆を放る。立ち上がって、改めてキャンバスと向かい合うと、ごく自然にため息が出た。
 ダメだ、と思う。汚れた手で頭を抱える。焦燥感や倦怠感や空腹感がグチャグチャになって、いっそ濁った色の涙が出そう。
 カオスだ。いいやもうカラカラだ。枯渇している。俺はとうとう油絵の具で汚れに汚れたビニールシートの上に倒れた。
 もういやだ〜〜描けない描けない描けない描けない〜〜おかあさ〜〜ん。

「成海!」

 そうしてのたうちまわっていたら、俺の体の上に影が落ちてきた。顔を覆っていた両手を少しずらして、上を見上げると、同じ油絵学科の橘が俺を見下ろしていた。
 橘は、今日も室内なのに変な柄のニット帽をかぶり、子猿みたいに愉快そうな顔をしている。

「成海、おまえそれ何の儀式だ?」
「……雨乞い……?」
「明日飲み会な。来るだろ?もちろん来るだろ?」 
「いい〜……行かね〜……」

 橘は俺の友人にしては稀なタイプの男で、こんなふうにしょっちゅう俺を賑やかな場所へ誘いにやってくる。そして人の話をあんまり聞かない。俺が飲み会とか苦手だって話、橘と知り合ってわりと最初のほうに言ったような気がするのだけど。
 橘が不満そうな声をあげるが、聞き流す。行きたくないもんは行きたくない。今は、特に行きたくない。

「俺なんか社会のクズだし……」
「なんだよ、またスランプ?……つーかおまえくっさ!風呂入ってないだろ!帰って風呂入れ!」
「うそ、そんなに臭い?」
「勘弁しろよ、そんなんじゃ明日友だちの俺までドン引きされるだろ!」
「だから行かないって!」

 思わず叫ぶと、橘が急に真面目な顔つきになって俺を見据える。
 うわ、胡散臭ぇ、などと思っていると、橘の手が俺の肩を妙にやさしくぽんぽんと叩いた。

「成海、スランプのおまえに必要なのは明日への活力、つまり気晴らし。酒と女。あと風呂な」
「いやいやいやそれはない……風呂はともかく……」

 ジャージの内側が汗でじっとりとしている。途端に、たしかに臭いかも、と不安になる。
 俺はようやく重たい体を起こした。窓の外は薄暗い。礫のような星が一つ見えた。
 のろのろと画材を片付け始める俺に、橘が去り際に声を荒げた。

「明日来いよ!?ぜったいに来いよ!?」
「……え、ダチョウ?」



 腹の虫がおさまらないので、帰る前にパン屋へ足を運んだ。
 大学内のパン屋は夜七時までなので、閉店ギリギリだ。売り場はすっかり寂しくなっていた。目当てのツナサンドも、すでに棚から消えていた。またしてもため息が出る。
 このパン屋のツナサンドは、高校の購買で売られていたツナサンドの味と似ている。食べると、なんだか懐かしい気持ちになるのだった。俺なんか、地味だし、ヒエラルキーの最下層にいたような男子生徒だったし、たいした思い出もないのに。
 ただ、あの頃は、もっと自由に絵を描けていた気がする。当時二階にあった美術室への階段を、いつも誰よりも早く駆け上がって、キャンバスに向かっていた。
 ツナサンドの代わりに仕方なく手にとった、余り物のつぶあんぱんを見つめながら、所詮俺なんて奴は、と思う。
 俺なんて所詮、美大に入ったら周りの才能に圧倒されて潰れるタイプの非凡で量産型の人間だし……。

「つぶあんぱん一つ、百二十円です」

 あんぱんをレジカウンターに置くと、透きとおった声が聞こえた。俺の濁った体の内側を、淡い水色に染めてくれるような。
 「パン屋の南ちゃん」といえば、この美大のパン屋で働いている素敵な女の子のことだ。エプロンの胸元に付けられている名札に「南」とあるので、苗字なのだろうけど、勝手にそう呼んでしまっている。趣味がそれほど合わない橘とも、南ちゃんの話題ではちょっとばかし盛り上がったりする。
 南ちゃんは、肌が白く、線が細い。いつも伏し目がちにテキパキと作業をこなす彼女の笑ったところを、俺は見たことがない。
 まだ若そうに見えるけれど、女子の経験値のない俺からしてみれば女子の年齢なんか全然見当がつかない。学生なのか、フリーターなのか、それともパート?
 南ちゃんのことは何も知らないに等しいけれど、彼女はいつも冷たく澄んだ水のような存在でそこにいる。
 レジに南ちゃんがいると、俺はうれしい。そして、この上なく緊張してしまうのだった。

「……あれ?」

 この日も例外なく体を硬くしつつ財布から百二十円を探っていると、ふとカウンターの上のパンが増えていることに気がついた。
 いつのまにかあんぱんの袋の隣に置かれていたのは、紛れもなく二百十円のツナサンド。

「サービス」

 突然現れたツナサンドと、レジに立つ南ちゃんを交互に見つつ狼狽えていたら、表情筋をピクリとも動かさずに、南ちゃんが一言そう言った。

「お兄さん、いつもツナサンド買っていかれるでしょう」

 えっ?もしかして、俺に言ってる?

「あ、あ、はい、買っていかれます……」
「サービスです」

 呆然としている俺をよそに、南ちゃんは今日もテキパキと、二つのパンを紙袋に入れてまとめてくれた。
 俺は差し出された紙袋を手に、パン屋を出た。毎度ありがとうございました、と洗われるような声を背中越しにかけられた。
 外はすっかり夜だった。初夏の生あたたかい風。礫のような星が一つ、瞬いていた。
 ……あっ。
 そういや俺、風呂入ってなかったんだった。

「……く、臭かったかな……」

 三度目のため息が出た。


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