※喫煙
あの子はバニラの香りがする。
ミルクティー色の髪がよく似合っている。肌は雪のように白く、唇は薔薇のように赤い。目は薄い茶色だけど、よく見たら、いろんな色が混ざり合った複雑な色をしている。
フランス人形みたい、とか思っていたら、どうやらほんとうにそうらしい。フランス人とのハーフなのだそうだ。
放課後、美術室の戸が薄く開いていたから、何の気なしにひょいと覗いてみたら、あの子がいた。
石膏像のデッサンをしている姿に、あたしは一瞬で釘付けになった。フランス人形のようなあの子が、背もたれのない木の椅子に足を開いて座り、シャツの袖を捲くり上げて真っ白な細腕を西日に晒しながら、ただ黙々と鉛筆を走らせている姿に。
――あの子と仲よくなりたい。
純粋とも不純ともいえない気持ちで、いっそうあの子への思いの匂いが、そのときたしかに濃密になった気がした。
ユキから、放課後、家へ来ない? と誘われて、あたしはもちろん頷いた。あたしに犬のしっぽがついてなくてよかったと、つくづく思う。
ユキの家は、使用人の一人でも雇っていそうな大きな一軒家だった。しかし中に入ってみれば人気はなく、ひっそりと静か。モデルルームそのままのようなただただ広くて生活感のないリビング。その中央に無機質に鎮座する革張りのソファ。
ユキは、ソファに通学カバンを乱暴に放り投げ、自分もそこに腰を下ろすと、突っ立ったあたしを見上げて、ちひろも座って、と言った。
「ユキんち、親遅いの?」
あたしはユキの言いつけ通り素直に、そしてソファはこんなに広々としているのに、ちゃっかりユキの傍に座った。
あたしが訊くと、ユキは頷く。
「うち、両親仲悪いんだ。するならさっさとリコンしてほしい」
淡々と答えるユキに、あたしはまた訊ねた。
「さみしくないの?」
「さみしいよ。でもね、親が別れることはどうだっていいの。あたしはね、自分がひとりになることがさみしいんだ」
薄情だから、と静かに吐き捨てるように言う。思わずあたしは言った。
「言っとくけど、あたしユキのことひとりにさせないからね」
ユキはきょとんとあたしを見て、すぐにクスッと笑った。そのあとに、ありがとう、と頷いた。絵画の少女みたいに、それはとてもうつくしい笑い方だった。ユキは絵になる女の子。そんなユキのひそかな孤独を知って、あたしはますますユキをいとしく思う。
おもむろに、ユキが通学カバンに手を伸ばし、中からピンク色の煙草のボックスと、透明な青いライターを取り出した。
日常的に、とても慣れた手つきで火がつけられて、煙草の先から白い煙が立ちのぼるまでをあたしは眺めていた。
「おいしい?」
ごく自然な気持ちで質問すると、横目にあたしをうつして、ユキがほほえむ。
「おいしいよ」
ちひろも吸いたい? と訊かれて、好奇心というよりただただ素直に頷くと、
「だめ」
と、やさしくたしなめられる。
「どうして? おいしいんでしょ」
「ちひろには煙草なんかぜったい似合わないもん」
「そこはさぁ、ちひろの肺が汚れるのは嫌だから、とかじゃないの?」
「それもあるけどね」
あるんだ、とあたしは胸のうちで呟き、なんだか無性に泣きたくなるのだった。かなしい、せつない、うれしい、ぜんぶ混ざり合った灰色の濁った涙が出そう。
ときどき垣間見る。ユキはときどき、ものすごく純粋なものを見るようなまなざしであたしを見る。たとえるなら、母親が子どもを見つめるようなまなざしだ。
ユキからデッサンの依頼を何も考えずに受けてしまったのは失敗だった。あたしは、気がついてしまった。
ユキの絵が完成したら、あたしはその絵を真正面から見据えることができるのだろうか。もしそれがきれいなものだったら、あたしはユキの目の前でその絵を破りたい。
ほんとうはあたしってこんな人間なんだ、ごめんね、って笑ったら、ユキは、かなしむだろうか。
「ちひろ、どうしたの」
「かなしい……」
「泣くほど吸いたいの? でもだめ。吸ったら絶交だから」
「ちがうよ、ユキのばか。なんで絶交とか言うの」
喚くあたしの頭を、ユキがはいはいとやさしく撫でるから、あたしはますます泣いた。
ユキはあたしのことを少しもわかってない。でも、いいよ。ユキはあたしのことなんか知らなくていいんだ。
煙草の白い煙は、なんだか甘い香りがする。
ねえ、ユキ知らないの。副流煙てね、ふつうに喫煙するよりずっと体に悪いんだよ……。そう心のなかで笑いながら、あたしはユキの華奢な肩に頭をのせた。
あたしは、離れられない。
ユキのバニラの香りを知った日から、それがずっとあたしの心臓を縛っているから。
バニラ
15.9.18
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