いつも父の作業着のポケットに入っていた煙草があった。
 父が俺の前でそれを吸うことは、最期までなかったのだが。


 ◇


 子どもの泣き声が聞こえる。
 目の前を次々と流れていく人の波を見ている。これは、俺が五歳の頃の情景だ。
 祭囃子。焼きそばやお好み焼きのソースの匂い。りんご飴の赤い艶。真夏の夜の、肌にはりつく熱気。俺をわくわくさせていたすべてが、今はただ一人の心細さに拍車をかけた。
 祭囃子に紛れて、ずっとどこかで子どもの泣き声がしている。まだちいさい子の声だ。きっと迷子なのだろう。懸命に誰かを呼ぶようなその泣き声を聞いているうちに、胸がざわざわと苦しくなってくる。
 誰か、はやく、あの子を見つけて。

「――唯太!」

 ハッと顔を上げる。
 人波をかき分けながらこちらへ駆け寄ってくる父の姿を見つけて、俺は、ずっと握りしめていたりんご飴を思わず地面に落としてしまった。

「よかった、やっと見つけた」

 ごめんな、父さんはぐれちゃったな、とどうしてか父は謝りながら、めいっぱいの笑顔で俺を抱き上げた。そして、俺をしっかりと腕に抱いて歩き出す。
 背の高い父に抱き上げられたら、祭の光景が隅々まで見渡せた。けれど、俺が落としたりんご飴はすっかり人波で隠れされて、もうどこにも見えない。

「唯太はえらいなあ。一人でも泣かないで」

 とうさん、ごめん。買ってもらったりんご飴、おとしちゃった。
 父のやさしい声を聞きながら、言わなきゃ、と思う言葉がいつまでも喉のところでとどまっていた。目の奥がじんと熱い。それを我慢するので精一杯で、りんご飴のことはもうとても言えそうになかった。

「でもなぁ、父さんちょっと心配だなぁ。唯太はぜんぜん泣かないから、父さん、唯太のこと見つけるのも大変だ」

 笑いながら歩く父の体には「ハイライト」の匂いが染みついている。あの水色の煙草の匂いだ。父がそれを吸っている姿を俺はこの目で見たことがなかったが、仕事から帰ってきた父に母はいつも「職場でも少しは控えてくださいね」と小言を口にしていた。だから、なんとなく、「父さんが煙草を吸っているところが見たい」とは言えなかった。
 神社の入り口で母と妹と合流した頃には、そういえばもうあの子どもの泣き声は聞こえなくなっていた。誰かがあの子を見つけたのか。それとも、聞こえなくなるくらい俺が遠くまで来たのか。



 駅前で、妹を待っている。
 これは過去の情景でもなんでもない。二十歳の俺の現在。
 ベンチに座って煙草を吸いながら、まるまる去年ぶりに訪れた地元の駅前の景色を眺めていた。建物も人も増えた気がする。もともと田舎でもない街なのに、これ以上増えてどうするんだろう。などと考えていれば、目先のロータリーに白のコンパクトカーが一台やってきた。煙草を仕舞い、車へ近づいて行く。

「お兄ちゃん、久しぶり! あっ、また髪伸びてる。切りなよ、見てるこっちが暑くなるんだから」

 後部座席に乗り込めば、さっそく小言をくらう。
 一つ下の妹の悠花は、俺と違ってハキハキ話す。表情も豊かだ。ついでに髪も、俺みたいな癖毛じゃない、サラサラストレート。

「久しぶり。これでもちょいちょい切ってるんだよ。悠花はずっと髪短いままだな」
「うん、短いほうが好きだから。来年成人式があるから伸ばそうかとも思ってるけど……。あ、そうそう、成人式の家族写真撮るんだから、その頃お兄ちゃんちゃんと帰ってきてよね」
「悠花の成人式の記念品もブックカバーなのかな」
「そうやってすぐごまかす!」

 怒りながらハンドルをさばく悠花を尻目に、ため息をつくようにシートにもたれる。免許取って半年とは思えないな。俺より上手いんじゃないか、車の運転。
 車内はクーラーが効いているが、窓からは日光が容赦なく射し込む。動かない青空に入道雲の白がくっきりと浮かんでいる。

「ねぇ、お兄ちゃん」
「んー」
「やっぱり、髪長いほうがいいと思う? 成人式」
「悠花が好きなほうにしな」

 後悔しないように、と付け足そうとしたのだが、なんとなくそこで言葉は途切れた。
 ジーンズのポケットの中に入れた右手が掴んだもの。手の中でくしゃりと僅かに潰れる、水色のソフトパック。閉じた瞼が焼かれそうに熱い。

 明日、父の三回忌だ。
 父が逝ったのは、俺と悠花が高校生の頃だ。俺が十八歳を迎える前日のことだった。癌だった。末期の。倒れてから亡くなるまで、あまりに早過ぎて、その間父と過ごした記憶は正直曖昧だった。病室で見た父の最後の顔も、もうよく思い出せない。なんて薄情な息子だと、俺を怒るだろうか、父は。
 そういえば、父の怒った顔を、俺は見たことがなかった。俺の記憶の父はいつも笑顔だ。
 そうか。とうとう笑った顔しか知らなかったのか、俺は。


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