家まであと少しというところで、悠花からの質問が途切れた。しばらく沈黙が続いて、俺はそろりと横目に悠花を見た。うつむきながら俺の隣を歩く姿が、ちいさい頃の悠花と重なって見えた。
 言うのかな、思った。
 雰囲気でわかる。悠花は、俺が実家に帰ってきてからずっと何か言いたそうにしているのだ。それも近況などではなく、もっと何か後ろめたいような、深刻そうなことを。

「……お兄ちゃん、ほんとうは家に帰ってきたくなかった?」

 うつむいたまま、悠花が口を開いた。

「私がいるから?」

 いつものハキハキした悠花の声ではなく、潰れそうなかすれた声だった。
 一方俺は、悠花が何のことを言っているのか、さっぱり見当がつかないでいた。

「私が進学したから……。だからお兄ちゃん、私のこと憎たらしいって思ってるんでしょ?」

 進学、という言葉に、なんとなくだけど、悠花の言いたいことがようやくわかった。
 悠花は今、私立の大学に通っている。勉強したい分野と、それを学びたい先生がいるからと。だからどうしてもその学校に行きたいのだと、悠花はすでに高校に入って間もない頃から口にしていたのだ。
 俺は、父が亡くなったすぐ後に、自分の進路希望を変えた。進学をやめた。ならば就職という道ももちろん提示されたけど、なんだかんだで俺は今フリーターだ。実家を離れ、バーのアルバイトで生計を立てている。
 どうやら悠花は、俺が泣く泣く進学の道を諦めて、それを悠花に譲ったのだと思っているらしい。たしかに、稼ぎ頭の父が亡くなって、もともと裕福な家庭でもない家には、子ども二人を大学に入れることは金銭面的に厳しいことは明白だった。
 いや、だけど……。俺は自分の頭を掻いた。
 悠花はちょっと、なんていうか、想像力豊かなところがあるんだよな。昔から。
 ああそうだ、思い出した。お互い小学生の頃に、悠花が俺の分のアイスを食べてしまったことがあった。悠花は、俺がそれにめちゃくちゃ腹を立てて自分に素っ気ない態度をとっているのだと思い込んで、後から泣きながら俺に謝ってきたっけ。俺は自分のアイスが食べられたことさえ気がついていなかったのに(素っ気ないのはもともとの性質だと思う)。
 あの時も、夏だった。夕暮れだった。蜩に負けないくらいの悠花の泣きじゃくる声を覚えているから。いくら宥めてもなかなか泣き止まなくて困った。その時ちょうど父が仕事から帰ってきて、俺にくっついたまま泣きつかれて眠ってしまった悠花と、ただただ困っている俺の顔を見て、笑ったのだ。

 ふと、悠花を見て、俺はぎょっとした。悠花が黙って歩きながらぼろぼろと泣いていたから。
 十八歳の俺が選んだ選択は、ただの自暴自棄だ。葬式を終えてから、なんだかなんにもしたくなくなってしまった。でもそんなどうしようもない理由も、悠花にとってはプラスだと思っていた。俺が選ばなかった分経済的に余裕ができたわけで、少なくとも今の悠花のためになっている。それだけが俺にとっては救いで、免罪符のようなものだった。なのに、悠花がこんなふうに思い詰めていたことなんて、俺は少しも気がつかなかった。

「悠花のせいじゃないよ」

 気がつかなくて、当たり前だ。
 去年帰ってきた時だって、俺は父の墓参りを終えたら逃げるように実家をあとにした。

「俺は、悠花みたいに大学行ってまでやりたいことなんてなかったから」

 正直、帰ってくることは足が重かった。去年も、今年も。でもそれは決して妹のせいじゃない。いつまでも向き合うことに臆病になっている俺自身の問題だから。
 新幹線の中で、実家までの車の中で、葬式の日の記憶が断片的に、けれど痛みすら覚えるほどに繰り返し頭を回っていた。
 泣きじゃくる悠花、名前もわからない親戚の言葉、気にしなくていいと言った母のやさしい声。遺影の中の父の笑顔。
 忘れたいとは思わないけれど、まるで責められているような感覚になった。どうしようもない自分、あの日泣けなかった俺に対して。

「俺が進学しなかったことは俺が自分で決めたことで、悠花のせいじゃないよ。悠花のこと憎たらしいなんて、思ったことない」
「……ほんとに?」
「ほんとに」

 宥めるつもりで、悠花の頭をぽんぽんと叩いた。それでも疑念の視線を向けられて、内心たじろぐ。

「じゃあ、最低年ニ回は顔見せてよ。お盆とお正月。……日帰りは無しだからね」

 ズッと鼻をすすって、やや涙の残った声で悠花が言った。

「お兄ちゃんでしょ」

 俺のTシャツの裾を細い手が掴んだ。俺は、少し迷ってから、その手を掴んだ。

「ダメな兄ちゃんでごめんな」
「……白くま」
「え、なに?」
「白くまアイス、やっぱり買って帰る」
「……戻るか」

 通り過ぎたコンビニまで引き返し、アイスを買った。煙草は忘れた。
 妹を泣かせてしまったのに、どうしてだろう。重たかった俺の心の一部が、たしかに、今少しだけ軽くなっていた。
 その日、十年ぶりぐらいに、妹と手をつないで家に帰った。


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