帰宅して、気がついた。トイレットペーパーがすでに充分にあることに。
 定位置にきっちり備えられたトイレットペーパーを見て、マジでか、と思う。俺はりきって24ロールも買ってきたのに。
 明日の法事の準備もそこそこに、今は夕飯の支度に勤しんでいる母に声をかけた。

「母さん、トイレットペーパーこれ以上置き場所がないんだけど」

 助けを求めるように言ったつもりだったのに、母はあらそう、とだけ言って、表情も変えない。

「まあ、いいのよ。どうせ消費するのだから。入りきらない分は押入れに隠しときなさい」

 押入れって。
 なんだか腑に落ちない気持ちになる。微塵も動揺のない言い方からして、すでに充分にあることを知っていたようで。
 とりあえず母の言う通り、入りきらないトイレットペーパーたちをすべて押入れに突っ込んだ。

「怒ってたでしょう、あの子」

 再び母のいる台所へ戻り、他にやることはないかと訊ねれば、見当違いな答えが返ってきた。

「え? 誰が?」
「悠花よ」
「ああ……泣かしちゃった」
「もう、お兄ちゃんでしょう」
「はは、さっき同じこと言われたよ」
「やっと笑った」

 と言って、母がやわらかい微笑を俺へ向けた。

「あなたずっと思い詰めたような顔していたわよ。いつからとは言わないけれど」
「……」
「唯太のそういうところ、お父さんそっくり」
「……そういうところって?」
「さて、もうすぐ夕飯だから、それまで悠花とテレビでも見てらっしゃい」

 台所を追い払われた俺は、のろのろと居間へ向かった。
 縁側で迎え火が焚かれているので、顔を出した居間は少し焦げくさい。空を見上げる胡瓜の馬。居間の中心では、悠花が足を崩して麦茶を飲みながら夕方のニュースを見ている。俺はその横に腰を下ろして、勝手に悠花のコップの麦茶を一口飲んだ。
 
「ねぇ、お兄ちゃん」
「んー」
「カノジョいるでしょ、今」
「うんって言ったら『連れて来い』って言うから言わない」
「そんなの言うに決まってるじゃない、連れてきてよ」
「あー、じゃあ今度連れてくるよ。悠花好きだったよな、俺の友達のイケメンの慧太くん。今同じとこで働いてるから。慧太くんバーテンやってるんだよ、かっこいいでしょ」
「お母さーん、お兄ちゃんカノジョいるんだってー! あ、わかった。お兄ちゃん、だから帰ってこないんでしょ」
「悠花ちゃん、いいこだからお兄ちゃんとポケモンみようポケモン」

 リモコンをテレビへ向けた。チャンネルを変える手前、夕方のニュースの街頭インタビューに目がとまった。アナウンサーが若者にお盆の意味を訊ねている。
 俺とそう年の変わらなそうな男は、向けられたマイク越しに、えーと、家族で集まる日? と、自信なさげに答えていた。



 地元もこの場所も、まとわりつくような熱気と、蝉の鳴き声は同じだ。日射しが強い炎天下。どこも同じような夏が続いている。

「北海道行きたい……」
「唯太」
 
 駅を出ると、江利子が待ち伏せていた。暑さにぼやいていた俺を見つけて、ひらりと片手を振った。素敵な黒髪をゆらしながら、走るでもなくこちらへやって来る。

「江利子、来たんだ。暑かっただろ。俺の部屋で待ってればよかったのに」
「煙草切らしちゃって」

 江利子が提げているビニール袋からは、たしかに煙草のカートンが覗いていた。彼女の愛煙しているマルボロメンソール。俺は煙草のついでか。
 アパートまでの道すがら、そういえば、とジーンズのポケットに手を入れて、ソフトパックを掴んだ。最後の一本を抜く。

「吸っていい?」
「どうしたの、そんなのいつも聞かないじゃない」

 江利子は小さく笑いながら、どうぞ、と答えた。

「なんか妹といる感覚が抜けなくて。まあ、いたら吸えないんだけど」
「唯太、妹いるんだっけ。いいな」
「うん、いいよ」

 素直に答えると、自然に口元が緩んだことがわかった。すぐに気がついたらしい江利子が、あ、笑顔、と言う。そして、めずらしいと付け足した。

「唯太、お線香の匂いがする」
「うん」
「ちゃんとお見送りできた?」
「どうかな」

 安いライターで火をつけてたちまち溢れ出す白い煙が、夏の空へ上がっていく。ハイライトの匂いは、父を思い出す。
 久しぶりに見た父の遺影は、やっぱり笑顔で、変わらずに俺や悠花や母さんを見ていた。
 父に向かって手を合わせたとき、ふいによみがえったのは、幼い頃の夏祭りの情景だった。迷子になった俺を見つけてくれた父。ほんとうはあの時、ずっと泣くのを我慢していたことを、二十歳になった夏の日、ようやく思い出した。

 江利子が、俺を見ているのがわかる。だけどそちらを振り向けない。わななく唇が地面に落とした煙草を、江利子がゆっくりと拾い、自分のポケット灰皿に仕舞った。
 煙が消えても残るハイライトの匂い。大人になったら、俺は父さんと並んで煙草を吸いたかった。でも、それはもう叶わないことなのだと、今はじめて理解できた気がした。
 江利子の細い手が、俺の手を取った。俺は空いた片手で自分の顔を覆い、涙を拭っても、足りない。全然、足りなかった。
 江利子に手を引かれながら歩道を歩く子どものような自分に、胸のうちで笑った。

「唯太」

 アパートに着いて部屋に入ると、江利子が背伸びをして、俺の頭をなでた。

「たいへんよく泣けました」




情景ハイライト
15.2.14


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