四
――五日後。
雨天が続いていた。その夜は、遠くで雷鳴が不気味に轟き、いっこうに降り止むことのない雨粒がしきりに屋根を叩いていた。
私は夢で久しぶりに母の声を聞いた。
白桃……。
儚い淡雪のようでいて、絶対的に抗えないこの声音。顔を上げれば、母の影がすぐそこに佇んでいた。
かあさま。
無意識に私の口からは、母を呼ぶ音がほろりとこぼれ落ちていた。
母の影は笑ったのだろうか、刹那、ふうわりと周囲の空気が揺れ動いた。
影が一歩歩み出す。一歩、また一歩と、ひどく緩慢なそれで私との距離を縮めてゆく。
白桃……。
ああ、かわいい私の娘。
その顔を母に見せてちょうだい。
そう言った母の手が、感触もなくまるで冷気のごとく私の頬をやさしく包み込んだ。
私は、生まれてはじめて母にそうされていることがうれしく、生まれてはじめて、無垢な子どもの気持ちで目の前の影に向かって話しかけた。
かあさま、かあさま。
聞いてください。白桃は、恋をしました。
白虎のように美しく、陽だまりのようにあたたかい、青い月の瞳を持つひとなのです。
かあさま、白桃は――。
言葉の途中で私は、息を呑んだ。
ハクトウ……。
母だと疑っていなかった“それ”は、口の両端を吊り上げ、身も凍るような恐ろしい笑みを浮かべてみせた。
――黒く燃え盛る影。
それは、母のものとは似ても似つかない、地の底から響くような不気味な声を発した。
オマエハ、トクベツナノヨ。
――ドン!
落雷に似た轟音が鼓膜を突き抜け、私は寝台の上で飛び起きた。
「……」
窓の外で鳴り響く雨音、遠雷。この夜闇の中でさえその身を美しく浮かび上がらせる鏡台の髪飾りが、視界の端でちらと光ってみえた。彼がくれた、桃の花。
ああ、ここは、叔父と暮らす家だ。紛れもなく、叔父が与えてくれた私の自室であった。
「……いやな夢……」
深いため息をつく。おもむろにうつむくと、ポト、と掛布団に汗の滴がひとつ落下した。
水が飲みたい、と思う。ひどく喉が渇いていた。このままでは眠れないと寝台から降りて、部屋を出ようとしたときだった。
「……?」
雨音に紛れて、声が聞こえてくる。
叔父がまだ起きているのだろうか? 自室を出て廊下を歩いていくと、徐々に声量が確かなものになっていく。
どうやら話し声のようだった。来客? いや、電話だろうか。内容は聞き取れないがしかし、叔父にしてはめずらしく、ずいぶんと声を荒らげていた。
「叔父様……?」
本来の目的である喉の渇きも忘れ、私は叔父の自室をそっと覗いた。
はっとこちらへ目を向けた叔父の、その出で立ちに私は目を瞠った。丈の長い上着に、大きな黒革の鞄。叔父がいつも問診へ出かけるときの装いであった。
「叔父様、どこへいくの?」
こんな夜更けに、誰かが治療を求めている――?
叔父は私の問いには答えなかった。ひどく険しい顔つきで私に向き直ると、私の両肩に手を置き、こう言った。
「白桃。いいかい、君はこの家にいるんだ。私はしばらく戻らないかもしれないが、とにかく君はここにいるんだよ」
いいね? と促される。その語気の強さと、彼に引き取られてからはじめて目の当たりにする切羽詰まった様子に気圧されて、頷くことも忘れている間に、叔父は家を飛び出していってしまった。
状況もわからずひとり残された私は、なす術もなく自室へと戻った。
「……皓くん……」
どうしてか、彼のことが恋しくなる。
鏡台の桃の髪飾りに手を伸ばす。小さなそれを手のうちに収めて、そっと胸に抱いた。
止むことのない雨音と遠雷が、私の知り得ない場所で起こっている“何か”を隠している。
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