「……こわいか?」

 抜糸の最中、前から彼の声が問うてきた。

「……たくさんの傷跡のこと? それとも……」
「ああ、傷跡もそうだけど……。今のは俺の背に住んでいるやつのことに対して、かな」
「そうね……」

 膿盆に鋏と鑷子(セッシ)を置く。静かな室内で、カシャンと無機質な金属音が鳴り響いた。

「こわいくらい、綺麗だわ」

 滞りなく作業を終え、私は手袋を外しながら答える。

「皓くんとはじめて出逢ったとき、あなたに抱いた気持ちに似ている。一目惚れしてしまいそうよ」

 空気が仄かに揺れ、背を向けたまま彼が笑ったのだとわかる。

「……ありがとう」

 かすかな声で礼を述べた彼は、そのあと息をつくように肘を膝に着いた。前傾姿勢になったことで、背中の虎がわずかに躍動する。

「刺青、十五のときに入れたんだ。なにしろ位置が位置だから、俺自身はあまり見てやれないんだが……」

 そこで一度言葉を切ると、端麗な微笑を浮かべた顔がこちらへ向けられる。

「君には噛みついたりしないだろうから、時々、撫でてやってくれるとうれしい」

 それはもしかしたら冗談のつもりだったのかもしれない。けれど、私にはそうとは聞こえなかった。
 指先で、背――虎の背に、そっと触れる。とくんと鼓動が聴こえた気がした。服や手袋越しなどではない、生身の熱がじわりと伝わる。

「……白桃、」

 素肌に頬を寄せると彼は、少し動揺を滲ませた声色で諌めるように私の名を呼んだ。でも私はそれを無視してしまう。
 ――あたたかい。
 彼には時々、冷えた美しさを感じてしまうことがある。
 たとえば花祭りで、月光を浴びる横顔を隣で見ていたとき。しかしこうして触れてみると、その身に火を灯しているかのように彼はあたたかいのだ。――否、燃えるように、熱かった。

「……参ったな……」

 いつまでも微動だにせず私に頬ずりを許し続ける彼が、やがてかすれた声を吐き出した。

「あと四年もあるのか、君をこの腕で抱けるのは……」
「まあ……。皓くんったら、破廉恥ね」
「……いま先生が帰ってきたら、俺はもう二度と診てもらえなくなる気がする……」
「大丈夫よ。その為に私は叔父から医術の手ほどきを受けたんだもの」

 彼が苦く笑う。
 夏は日が長くてよかった。日が暮れるまで私は存分に、彼の魂を実感できる。
 ほんとうはいつまでもこうしていたいけれど……。

「すきよ、皓くん」


 夕刻が訪れ、私は彼を門の外まで見送りに出た。
 別れ際、「いかないでほしい」と口走りそうになるのを、すんでのところで呑み込んだ。彼が「今度は近いうちに会いに来るよ」と、笑顔で言うから。私はその言葉を信じて、まっている。庭の桃の木が見守るこの場所で。

「またな、白桃」

 私の髪を撫でた大きな手が離れ、夜闇が彼の姿をさらってゆく。とうとう影の端っこさえも見えなくなって、それでも私はひとり、庭に立ち尽くしていた。
 ザザ、と冷風が桃の木の青葉を擦り鳴らす。誘われるように空を見上げると、糸のように細い月が寂しげに、いまにも雲に隠されてしまいそうになりながら浮かんでいた。

「……そうだわ」

 帰ってきた叔父と共に夕飯を済ませたら、今夜は《八卦の札》をつくろう。
 彼への御守りをこさえるのだ。
 そう思案し、私はようやく踵を返した。
 喜んでくれるだろうか。あの少し幼い笑顔を想像すると、別れの寂しさが紛れ、胸が弾んだ。
 彼が次に訪ねてくるときには必ず手渡せるようにしよう――。

 けれど、そのときは終ぞ訪れることはなかった。
 なぜならこれが、私と生前の彼との最期の逢瀬となったのだ。


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