結局、昨夜は再び眠りの淵に落ちることはできなかった。
 朝を迎えると雷は止み、雨脚もだいぶ弱くなっていた。
 窓を開けて縁側に出てみる。細かな雨が降りしきる濡れた庭では、青葉から滴を落とす桃の木だけが立ち尽くしていた。門のほうを窺うが、叔父が帰ってくる気配はない。
 私は、なんだかひどく胸騒ぎをおぼえていた。それに、なんだろうか、土地全体がざわめいているようなこの空気……。

「お嬢ちゃん」

 周辺の様子をたしかめようと、家の敷地から少し出てみる。と、すぐさま近所の婦人が駆け寄ってきた。

「お嬢ちゃん、今は無闇に外をうろつかないほうがいいよ。ずいぶん大変なことになってるみたいだしね」

 訳知り顔の婦人に、思わず私は訊ねた。

「あの、大変なことって……?」
「なんだ知らないのかい? 昨夜、鴻洞会の用心棒が討たれたそうなんだよ」

 鴻洞会の、用心棒――。

「それで王桃先生が今……あっ、お嬢ちゃん!」

 考える間もなく、私は駆け出していた。
 泥濘の大地を靴が汚れるのもかまわず走り続ける。鼓動が嫌な音を刻み、次第に黒雲のように体中に広がっていく。
 この霧雨のせいか、それとも冷静な思考を欠いているせいか、周囲の景色が輪郭を歪めてしまってよく見えない。
 生まれ故郷からこの土地に来て、約四年。ほとんどあの家から外へ出たことがない私に、ろくな土地勘などなかった。私は一体どこを目指しているというのか。しかし足は止まらない。
 おさまらない、昨夜の遠雷のような胸騒ぎが――。

「……あっ」

 やがて視界の先に、見慣れた風貌の男性の姿をとらえた。私はすがる思いで駆け寄ってゆき、そして、足を止めた。
 ――叔父であった。
 憔悴を極めた様子の、たった一晩で別人のようにやつれてしまった叔父が呆然と私を見下ろし、白桃、と私の名を口にした。

「……おじ、さま……?」

 そう呼びながら、このとき私の目はもはや彼のことを見てはいなかった。
 上から下まで叔父の衣服にべったり付着した赤い血を、見ていたのだ。
 これは、誰の血――?

「……白桃、すまない……」

 やっとのことで絞り出したようなその声は、しかし雷鳴の響きのように強い衝撃をもって、私に告げたのだ。

「私は、彼を――」

 皓月くんを助けることができなかった、と。
 雨が檻のように降り注ぐ中、赤い鉄の匂いが私の鼻先をかすめた。


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