「手、かして」

 水滴が落ちるように、杏ちゃんが言った。
 俺は、どうしたらいいかわからず何の反応もできなかった。ただただ固まっていたら、焦れたのか、杏ちゃんのほうから手を伸ばしてきた。戸惑う俺をよそに、杏ちゃんの手はあっさり俺の手をとってしまう。
 小さな手だった。こんなに小さくて、やわらかくて、雨に当たったせいか、ひんやりしていた。まるで雪のようだった。
 俺がぎゅっと握ったら、ぜったいに壊してしまう。そう思ったらこわくて引っ込めることもできなくなった。
 杏ちゃんは、ポーチといっしょに取り出したハンカチで、俺の手の甲の血を拭いてくれた。白いガーゼの生地に赤い血が染みていく。泣きそうになりながら、俺はそれを見ていた。
 血を拭うと、傷の上にていねいに絆創膏が貼られた。

「とりあえずこれで。家に帰ったら、剥がして傷消毒したほうがいいかも」
「……」
「ごめんね、一枚しかないの」

 俺の無言をどう受け取ったのかはわからないが、杏ちゃんはそう言った。

「俺のこと、こわくないの?」

 無意識に声が出てしまった。
 杏ちゃんが、まるであの頃のような目を俺に向ける。我に返ったように、急にものすごく恥ずかしくなった。

「こわくないよ」

 羞恥からうつむいていた顔を上げると、音もなく目が合った。

「雷のがこわいし」

 笑うこともなく当然のように、杏ちゃんは答えた。目の前の大きな瞳にうつる俺は、とても情けない顔をしていた。
 俺は、杏ちゃんをものすごく抱きしめたいと思った。抱きしめてほしいとも、思ってしまった。

 ほんとうは、ぜんぜん大丈夫なんかじゃない。
 殴られたら痛い。そんなの幼稚園児だってわかる。一度だって大丈夫なんかじゃなかった。
 俺は雷はこわくないけど、殴られるのはこわい。怒鳴られるのも痛いのも、ほんとうはこわい。でもこわいって言ったって「おまえなら大丈夫」とか「でかいくせに何言ってんの」とか言われるし、誰も助けてくれないし、結局殴られるんなら、と、いつも相手を殴ってしまう。
 ひとりは嫌いじゃない。けれど避けられたりするのは少し泣きたくなる。猫はかわいいけど、犬はこわい。死ぬのはもっとこわい。俺みたいなのが花が好きだって、いいじゃないか。

 あ、と杏ちゃんが声をあげた。

「雨、やんだね」

 軒下から空を見上げる横顔につられて、俺も空を見た。雨はやんでいた。雲の隙間からは日が射していた。
 まるで雨を吸って日射しで新芽が顔を出すように、杏ちゃんが立ち上がった。鞄を肩にかけて、何事もなかったかのように東屋の外へ出ていく。
 と、足が止まり、俺に振り向いた。

「あんまり喧嘩しないほうがいいと思う」

 そっけなく言うと、彼女はまた前に向き直る。そのまま一度も振り返ることなく、小さな背中は雨上がりの道を凛と歩いていった。

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