と、そのとき、パシャパシャと水浸しの地面を蹴る音がして、前を向く。
 誰かこっちに来る。
 音が近づいてきて、雨で煙っていた視界の中にぼんやりと人影が見えた。だんだんと影がはっきりしてくる。やがて、それが女の子だとわかった。小柄で、やせっぽちの……。
 彼女は、東屋の手前で先客がいることにハッとして足を止めたけど、ややあってゆっくり近づいてきた。無言で、少し距離を置いた俺の横に、ちょこんと座った。

 ――杏ちゃん……。

 すぐに、わかった。
 心臓が一度大きく鳴って、それを皮切りに早鐘を打ち始める。
 どうしてこんなところで?
 成長して知ったけれど、彼女が住んでいると言った日和市は、このへんからは電車で一時間以上かかる隣の県だった。だからこそ再会するとは夢にも思っていなかった。またイトコの家にお泊りしているんだろうか。
 あれからおよそ五年が経っていた。
 杏ちゃんは、髪が伸びていておさげにしていたけど、それ以外は泣きたいくらい変わっていなかった。しかしなんと、杏ちゃんはセーラー服を着ていた。年上だったのか、と軽く衝撃だった(そういえばお互いの学年を言った記憶がない。勝手に同い年だと思っていたのだ)。そしてその事実にちょっと興奮してしまった。杏ちゃん、俺よりお姉さんなのか……。

「……だいじょうぶ?」

 ふいに目が合って、肩が浮きそうになった。
 非常にドギマギしながら、だいじょうぶ、の意味を咀嚼して、彼女の視線が俺の手の甲に注がれていることに気づく。

「血が出てる」
「ああ、大丈夫……」

 まっさらな声色に、なんとなく勘づいた。
 杏ちゃんは、俺のことがわからないみたいだった。
 俺はこの五年でまたずいぶんでかくなってしまったし、声変わりもしているし、当然かもしれない。そもそもあんなたった数日間のことなんか、とうに記憶から消えてしまったのかもしれなかった。
 杏ちゃんが俺のことを忘れてしまったことが幸か不幸なのか、俺には測れないけど、でもたぶん前者なのだと思う。物理的にではないにしろ、傷つけてしまったことには変わりない。謝ることもできなかった。死のうと何度も思ったけど、結局今日までなんやかんや生きてきた、ダサくて情けないやつだ。
 ふと、杏ちゃんはおもむろに、自分のナイロンの通学鞄をあさり始めた。取り出されたのは、小さなポーチだった。
 あ、と思う。それがパンダのポーチだったからだ。
 杏ちゃんが花と同じくらい好きだと言っていた、パンダ。俺が壊してしまったパンダ。
 中学生ぐらいになったらさ、いっしょに動物園に行こうよ、と話し合ったことを思い出した。
 俺のせいで大好きなパンダまで嫌いになってしまったらどうしよう、とあの頃の俺は毎日こわかったのだ。何度も、何十回も、何百回も心の中で謝り続けた。

 ――杏ちゃん、ごめんね。

 あの頃の俺の声で、思う。
 ちゃんと言わなきゃいけないのに、今が絶好のチャンスかもしれないのに、どうしても言葉が出てこない。思い出してほしくなかった、俺のことなんか。
 杏ちゃん、ごめんね。
 まだ好きなんだ。俺は、今でも杏ちゃんのことが……。

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