崎くんだ。
 よかった、わたし追いついたんだ。
 やっと追いついた……。

「……崎くん」

 たしかめるように、そっと彼のことを呼んだ。

「崎くん、わたし、崎くんと今以上になりたいの」

 あっと思う。
 いや、違う。違くはないけど、でもまず先に謝らなきゃいけないのに。
 なけなしの冷静な部分でそうは思っても、しかしやはり気持ちが前のめりになっているのがわかる。痛々しいくらいに。

「あの、へんな意味じゃなくて……う、うまく言えないんだけど、えっと、もっと近づきたいとゆうか……」

 たどたどしく言いながら、自分の言葉に恥ずかしくなる。
 けれど、黙ってこちらを見上げてくる澄んだ色の瞳を見たら、すっと呼吸がラクになったような気がした。

「……わたし、崎くんのことが知りたい。些細なことでもいいの」

 わたしは、崎くんに伝えたいことがあるんだ。

「崎くんといると、人生ちょっと楽しいから……」

 伝えなきゃ。

「……崎くんのこと、すきだから……」

 温く、少し強い風が吹いた。湿気と汗で重たくなったわたしの髪をわずかにさらい、視界を遮った。
 一瞬の風が過ぎ、辺りには甘い土のような、雨上がりのようなにおいが残った。
 自然と元通りになった視界のなかで、崎くんの顔は少しも笑っていなくて、まるでわたしの熱が伝染したみたいに頬が赤くなっていた。
 やがて、崎くんが思い出したように上半身を起こした。

「……徳丸さん」

 目を伏せながら、崎くんが言う。

「手、つないでもいいですか……?」

 なんで敬語?
 ともかく、わたしが手を差し出すと、崎くんの手もゆっくりとこちらへ近づいてくる。じれったいほどの緩慢さで、わたしたちは手を重ねた。
 大きくてかたい手の感触。熱い体温。じわりとにじむ汗。まるで壊れものにふれるみたいにこわごわと、わたしの手に太い指を絡めてくる。
 公園の紫陽花を前にして、“やさしいもの”にふれられないと言っていた崎くんを、ふいに思い出した。
 崎くんにとって“やさしいもの” がどういう存在なのか、わたしにはわからない。けれど、崎くんのこの狼のような手や、体温や、ふれ方を知ったなら、それはわたしのなかにもあるもののような気がした。

「……杏ちゃん」

 なつかしい感覚が風のように胸をよぎる。
 杏ちゃん、と、少し頼りない声で、崎くんがわたしの名前を呼ぶ。

「……うん」
「杏ちゃん……俺は、杏ちゃんに言ってないことが、ほんとうはいっぱいあるんだ」
「うん……」
「はは……杏ちゃん、ドン引きするかも」
「しないよ」

 きっぱりと言う。それを肯定するようにきゅ、と指を絡めた。
 わたしの指は、崎くんと比べると貧相そのものだったけれど、それでもしっかりと絡めた。
 崎くんは、臆病そうにゆれる目でわたしを見て、それから、笑った。力のない笑い方だった。まるで小さな男の子みたいだと思った。
 笑っているのに、今にも泣きそうな崎くんは、少しうつむいて、わたしに言った。

「……ありがとう」

 その小さな声が、わたしの胸の真ん中に落ちていく。雨粒が土に染み込むように。
 つながれた手は、このままずっと離れなくてもいいような気がした。
 少し苦しくて、泣きたいような、笑ってしまいたいような。こういうのって、なんというのだろう。こんなの、はじめてだ。
 わたし、崎くんと出会ってから、なにもかもはじめてだ。

 あったかい。
 まるで、胸にちいさな花が咲いたみたいに。



16.6.26

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