梅雨の晴れ間なのか、午前中は隙間なく広がっていた雲がちぎれ、青空が見える。夏のような強い陽が射している。
 スカートを踊らせ、伝う汗にも構わずに夢中で走りながら、わたしは、思い出していた。
 幼い頃のことだ。
 わたしは、昔少しだけ児童館に通っていたことがあった。当時両親が離婚で揉めていて、この土地に越してくる前に住んでいた家の中は殺伐としていた記憶が、今でも感覚として残っている。
 まだ幼かったわたしは、数日間イトコの森くんの家に預けられることになった。とはいえ、森くんの実家はたいそうな家柄で、一人息子の森くんは家業の稽古で忙しそうだった。暇を持て余したわたしは、森くんの実家から目と鼻の先にある児童館へ赴いたのだった。
 そうだ、そこで、仲が良かった男の子がいた気がする。ほんの数日間だけど、わたしはその子といっしょに過ごしたんだ。
 杏ちゃん、とわたしはその子に呼ばれていた。やさしくて、いつも「すごいね」「先生みたいだ」ってにこにこしながら言ってくれて、わたしはその子のことが、すきだった。

 どうして今、その記憶が脳裏によみがえってくるのかわからない。
 ずっと忘れていたのに。どうして……。

 太陽が顔を出すと、湿った空気のせいで視界は淡く、まるで温室のようだった。
 紫陽花の咲く道を駆け抜ける。息が苦しくてしかたない。こんなに自分の運痴さを呪ったことはない。こんなに走ったことなんて、今まで一度もなかった。

 東園高校は小高い丘に建っている。
 学校を出て、少し行くと大きな石階段が見えてくる。そこの一番上で、わたしは立ち止まった。

 ――あ。

 見つけた。階段を下りていく、大きなうしろ姿を。
 彼がちょうど踊り場に差しかかったところで、わたしはすっと息を吸った。

「崎くん!」

 信じられないくらい大きな声が出た。
 わたしの声が周囲に反響し、それにびっくりしたように、彼がこちらを見上げた。
 わたしは、階段を駆け下りた。はやく、はやく追いつかなきゃ。気持ちがはやって止まらない。すでにガクガクな足をそれでもなんとか前に出す。あともう少しで追いつける。
 しかし途中で、足がもつれて段差を踏み外してしまった。

「――杏ちゃん!」

 崎くんが、わたしに向かって両手を広げた。
 一瞬、時間がものすごくゆっくり動いているような感覚に陥った。スローモーション、と思う暇もなかった。それはほんとうに一瞬のことで、次の瞬間にはわたしは崎くんに激突して、ふたりそろってドサッと倒れ込んでしまった。
 心臓がバクバクいっている。全身が心臓になったみたいだった。
 わたしを抱きとめた大きくてがっしりとした体は、案外ひんやりとしていて、でもそれはきっとわたしの体がめちゃくちゃ熱いからだ。
 わたしは我に返ったように、崎くんの上でガバッと体を起こした。

「ご、ごめん! 崎くん、だいじょうぶ……!?」
「……全然ヘーキ」

 ずいぶんかすれた声が、下から聞こえた。

「徳丸さんは……? 怪我してない?」
「だ、だいじょうぶ……お陰様で……」
「……そっか」

 よかった、と、わたしの下敷きになりながら崎くんが笑った。
 その顔を見た瞬間、このまま崩れ落ちてしまいそうなくらい、ものすごくほっとした。ものすごく、泣きたくなった。

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