膝の上の手をぎゅっと握り、顔を上げると、しかし、樹さんはわたしのことを見てはいなかった。

「崎、ここんとこずっと元気ないんです。負のオーラ出まくりっていうか、死人みたいっていうか……。あいつただでさえでかいのに、黙ってると、ほんと先生までビビっちゃって」

 樹さんの横顔に影が落ちている。覇気のない表情が意外だった。
 わたしと同じく膝の上に置かれた両手を合わせて、今しがたのわたしと同じように力を込めたのが見てわかった。

「もし、センパイが噂とか聞いて崎のこと嫌になったんなら……か、考え直してほしいっていうか……」
「……えっ?」
「う、噂なんてけっこう誇張されてる部分もあると思うし! 崎だって、今はぜんぜん喧嘩とかしてないみたいだし、授業は寝てるけど部活はちゃんとやってるし、あ、でも、こないだすっごい怒られてたっぽいけど……で、でもでも! 今はほんとそういうのないんで! だから、」
「噂って?」
「えっ?」

 やっとこちらを見た樹さんのまるい目が、さらにまるくなる。
 わたしたちの間に湿った初夏の風と沈黙が流れる。
 どういうことだ……?
 わたしはてっきり、樹さんがわたしに宣戦布告の類をしてくるのだと思っていたのだけど。樹さんも樹さんで、噂って?と聞き返したわたしが意外だったようで、ビー玉のような目をしたまま固まってしまっている。

「あれっ!? すっ、すみません! あたしてっきり……! あ、あの、今の聞かなかったことに……」

 取り乱したあとに申し訳なさそうに提案してくる樹さんだけど、そうは問屋が卸さない。
 わたしは少し樹さんとの距離を詰めた。そして、彼女の目をしかと見つめた。

「聞いてもいい?」
「うっ」
「聞かせて」
「うう……っ」

 しばし顔をそむけて唸っていた樹さんは、やがて観念したとでもいうように長いため息をついた。改めてお行儀よく膝の上に両手を置いて、少しうつむきがちに、樹さんが口を開く。

「あたし、崎とは幼なじみ……みたいなもんで」
「みたい?」
「えへへ、言いきれるほど親しくないんですよ。家が近所で、幼稚園とか小学校の低学年まではけっこう遊んだりしてたんですけど。ちょっとだけど、いっしょに柔道場通ってたりとか。……それで、崎って昔からほかの子より体でかくて、力も強いほうで」

 うん、とわたしは相槌をうつ。
 樹さんが一度わたしを見やって、眉を下げて小さく笑った。

「……たぶん、小学校三、四年ぐらいからだと思うんですけど、上の学年とか他校の人たちから喧嘩売られるようになったみたいで、カツアゲとか……。崎も崎でいちいち買っちゃうから、そうゆうのが続くようになって……不良とかヤンキーって言われて、ずっと孤立してたんです。あたしも、なんか話しかけれなくて」

 喧嘩、カツアゲ、孤立していた……?
 樹さんが話す崎くんの姿がよく見えない。しっくりこないのだ。あんなにいつもにこにこしていて、明るくて、脇目もふらずわたしの名前を呼んで、焼きそばの青海苔を口の端につけてたり、突然サボテンをくれたり、それから、犬のモモタロに似ている崎くんが――。
 ふいに、思い出した。
 以前、裏庭の花壇の前で、白い道着に巻かれた黒帯に対してわたしが、すごいね、強いんだね、と言ったら、崎くんが気まずそうに一瞬目を伏せたことを。
 わたしは、気のせいだと思ったんだ。

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