崎くんは、ほんとうはわたしじゃなくてもよかったんじゃないかな。
はじめて会ったあの夜、たまたまわたしが隣に座ったから。指についたソースを舐めた仕草が気になったきっかけだと、崎くんは言った。もしあれがわたしじゃなかったら、崎くんはわたしじゃない誰かといっしょに帰って、へたくそな桜坂を歌って、それで、付き合ってくださいと言ったのかもしれない。
崎くんと手をつないだこともない。そのことがわたしをますます不安にさせる。
なんとなくわかってしまったんだ。崎くんは、意識的にわたしにふれようとしないこと。
崎くんは何を考えているんだろう。ほんとうにわたしのことが好きなのかな。春の終わりに突然ふってきた「付き合ってください」という言葉。あれに偽りはなかったとしても、その気持ちは、今も崎くんの中にあるのかな……。
「崎くんに聞けばいいじゃん。いつもみたいに。気になったらすぐに消化したい質でしょ?」
と、七瀬が言う。
わたしも、そう思った。けど……。
「そうだけど、だって……崎くんに、ほんとうはわたしのことそんなにすきじゃないって、もしそう言われたら、こわい……」
膝を抱える手に、無意識にぎゅっと力が入る。
誰かに対してこんなに“こわい”と感じるなんてはじめてだった。真偽のわからない“もし”ばかりを考えて、ならば知りたくないと思うことも。少し前まで楽しかった気持ちが、ぜんぶ嘘みたいだ。
そっか、と七瀬が小さく言うのが聞こえた。
「杏、崎くんのことすきなんだね」
崎くんのこと、すきなんだね。
その言葉が、胸にすとんと落ちてきた。
心の中でわたしが頷いた気がした。
うん、わたしすきだ。
わたし、崎くんのことがすきだ。
崎くんの話し方も、笑い方も、並んでいっしょに歩いているときの空気も。ぜんぶすきだ。
わたしは、ほかの誰かじゃなくて、崎くんがいいんだ。
- 35 -
{ prev back next }