崎くんが、笑って誰かと話しているところを見た。
週明け、月曜日。崎くんと二人で公園にでかけた日の翌日のことだった。
たまには食堂でお昼を食べようと、七瀬とパスタセットの列に並んでいたところ、ふと視線をやった先に偶然崎くんの背中を見つけたのだ。
やっぱり、目立つ。崎くんの大きな背中は、こんなに混雑した場所でもすぐにわかる。
ラーメンセットの列の先頭にいた崎くんはすぐに列から外れ、丼が乗ったお盆を手に、空いていた窓際のカウンター席に座った。周りに仲間がいる様子はない。あとから来るのかな。
声、かけようかな……。
順番を待ちつつ、少し遠い距離のうしろ姿から目を離せずにいた。
と、そのとき、崎くんの隣の椅子に誰かが座った。崎くんがその子のほうを向く。その子も、崎くんのほうを向き、そして親しげに笑うのが見えた。
「杏?」
「……え?」
「どしたの? ぼーっとして」
順番きてるよ、と七瀬に言われて、前を向く。カルボナーラの皿を受け取り、お盆に乗せて列から外れる。
「……」
お盆を持ったまま立ち尽くす。
ガヤガヤとした喧騒が、なんだかぜんぶ遠い。耳に水が入ってしまったみたいに、ぼうっとする。
――どうして?
口癖のような、そんな言葉が頭の中に浮かぶ。どうして?なんで?と、次々とまるで泡のように浮かんでくるけど、いつものような純粋な好奇心は少しもないのだった。
崎くんが笑って誰かと話している。ときどき、相槌をうつように頭がゆれる。声なんか聞こえないのに、声をあげて笑っているのがはっきりとわかる。
あ、と思う。
崎くんの手が動いて、隣の誰か、女の子を、その子の頭を、なでた。
雨の日、さわってみたい、つないでみたいと思ったあの大きな手で、わたしじゃない女の子を――。
「杏、お待たせ。あっちの席空いてるから行こ……杏?」
七瀬にとんとんと肩を叩かれて、無言のままに顔を上げる。
「杏、どうしたの? 大丈夫?」
「……なんでもない」
全然なんでもなくなかった。こんなに心臓がバクバクしている。けれどわたしの口はロボットみたいに、なんでもない、だいじょうぶ、としか答えられなかった。
なんでもない。だいじょうぶ。そう自分に言い聞かせて、今にもふるえそうな足で歩き出した。
崎くんに、訊こう。
電話でもメールでもメッセージでもいいから。ちゃんと。
その夜、自分の部屋で、わたしはスマホを見つめながら思った。でもなんて訊けばいいんだろう。頭がごちゃごちゃして、なのに意識はぼうっとして、ちっとも言葉が浮かんでこない。
あれは、誰だったんだろう。
活発そうなショートヘアの女の子だった。ふたりはずいぶん親しそうに見えた。わたしとなんかよりも、ずっと。
「わたし崎くんのこと、なんにも知らない……」
ふいにそんな気持ちに襲われる。
なんでそんなふうに思うんだろう。焼きそばパンが好きとか、意外と花が好きとか、兄と妹がいるとか、知っていることは多からずあるはずなのに、なんでだろう、ぽっかりと空白が浮かび上がるみたいに、崎くんのこと、わたし、なんにも――。
今までそこにいた崎くんの姿を急に見失うような、そんな気持ちになったらこわくなって、結局電話でもメールでもメッセージでも訊けなくて、気づいたら木曜日だった。崎くんといっしょに、中庭でお昼を食べる日。
午前最後の授業が終わる鐘が鳴る。
「徳丸さん」
聞き慣れた声にふり向く。
教室の出入り口のところに立った崎くんが、ほほ笑みを浮かべながらわたしに片手を振った。
- 32 -
{ prev back next }