「ここは、徳丸さんが世話してるの?」

 ふいに話題が変わった気がして、はっとする。
 崎くんの目は、さっきまでずっと眺めていた、ベランダに向いていた。わたしもベランダに目を向ける。
 湿気で少し曇った窓の外で、ハーブの鉢植えたちが雨ざらしになっている。雨ざらし、といっても、いちおう軒下だからそこまで濡れてはいない。サボテンだけは、雨が当たらない位置に置いてあるけれど。

「ベランダガーデニングだよね」
「うん、いちおう……。ほんとうはちゃんとした庭でたくさん育てたいんだけど」
「そっか。でも、ここも庭って感じがするよ」

 崎くんが、その場にしゃがむ。

「きれいだな」

 それは、わたしに向けて言ったわけではないような声だった。ただ無意識にこぼれた言葉のように聞こえて、それがわたしはうれしかった。
 このベランダは、わたしにとって、自分のためのちいさな庭だから。今、崎くんの目にうつるこの場所が、きれいに見えていることがすごくうれしい。
 わたしも、同じようにその場にしゃがむ。崎くんのとなりに。
 わたしの手の近くに、崎くんの手がある。すごく大きな手だ。大きくて、筋張っていて、当たり前だけど、わたしのとぜんぜん違う。そんなことを今さらのように思い知って、その違いを目の当たりにしたら、なんだかドキドキした。
 そういえば、崎くんをここへ連れてくるとき、わたしは崎くんの手をとったんだった。あのときは早く雨から逃れようと必死だったから、感触とか、温度とか、正直もう曖昧だ。

 ――さわってみたい……。

 それは、はっきりと輪郭をもった気持ちだった。
 崎くんに、さわりたい。
 崎くんと、手、つないでみたい。

「――……」

 ふと、崎くんが音もなくこちらに向いた。
 目が合う。彫りの深い二重まぶたの目。それに吸い込まれるように、ほとんど無意識に、わたしは自分の手を崎くんの手に伸ばした――。

「ただいまー」

 と、そのとき。
 玄関のほうから、鍵を開ける音が聞こえた。続いて、ドアが開かれる音とともに、ただいま、という耳になじんだ声が。

「杏、いるー? もう晴れてたのに急に降ってきて、ほんと梅雨って嫌んなる……」

 リビングに入ってきたその人が、ベランダのそばでそろってしゃがみこんでいるわたしたちを見るなり、目をまるくする。幼い頃からお父さんによく「似ている」、「年が離れていても、やっぱり姉妹だな」と言われた目を。

「……あ、お邪魔してます……」
「……お姉ちゃん」

 わたしと崎くんの声がかぶった。
 しかしそんなことは今はどうだっていい。

「ただいま、杏。それから、えーっと……いらっしゃい?」

 さして動揺のない顔で、お姉ちゃんが崎くんに笑いかけた。そしてススス、と後ずさりながらわたしに言う。

「ごめん杏、邪魔して。わたし出直してくる」
「えっ、ちょっとお姉ちゃん!」
「あっ、俺帰ります」

 崎くんが立ち上がる。でもすぐに自分の服装に気づいたらしく、あ、とつぶやいたあと、わたしに振り返った。

「徳丸さんごめん、この服借りてっていい? 洗って返すので」
「え、うん……」
「俺の服は捨てちゃっていいから」
「え」
「じゃあ、お邪魔しました」

 崎くんは早口でそう告げると、つんつるてんのスウェット姿で歩き出した。お姉ちゃんとすれ違うときに再び、お邪魔しました、とぺこっと頭を下げて、玄関のほうへ歩いていく。
 表情はふつうに見えたけど、そうとうテンパっているらしかった。服、捨てちゃっていいからって……。
 わたしは、崎くんの姿が消えて、お姉ちゃんのいいの?というような目を見て、それからようやく思い出したように立ち上がった。

「崎くん!」

 玄関でスニーカーを履いていた崎くんが、顔を上げる。

「……あの、」

 追いかけたはいいけど、なんて言ったらいいのかわからなくなった。頭がうまく働かない。でも、なにか言わなきゃ、と思った。

「服、ちゃんと返すから……」

 なんだか気まずくて、崎くんの顔が見られない。
 うつむき気味にそう言うと、沈黙がやってくる。それに重たさをおぼえた。今までへいきだった沈黙とは、まったく違う種類に思えるほどに。
 ややあって、ほほえむ気配を感じた。
 目を上げると、崎くんが笑っていた。ひどくやさしい笑い方で。弱々しくも、見えるような。

「……今日はありがとう」

 崎くんが言う。

「レモネード、うまかったです」

 それじゃあ、と、崎くんが、立ち尽くすわたしに背を向けた。ドアが閉まる瞬間、湿っぽいにおいが鼻先をかすめた気がした。
 きっとまだ、外は雨が降っている。
 わたしは、崎くんに傘も渡せなかった。

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