一番古い記憶。
 幼稚園の頃、同じ組の子に花が好きだと話したら、「にあわねー」「きもちわりぃ」と笑われて、むかついてその子を殴ってしまった。
 二番目の記憶。
 六歳の頃、通っていた柔道場で頻繁に突っかかってくる他校の小学生を練習試合で力任せに負かしたら、その子は倒れた拍子に足を骨折してしまった。
 それから、数え切れないほどの記憶がある。
 これは幼稚園だったか小学校だったか、もう忘れてしまったけれど、授業で隣の子と手を繋がなければならなくなった。

「こわーい」

 手を伸ばしたら、避けられた。

「せんせー、崎くんと手をつなぐと、骨折られるからいやでーす」

 俺が取ろうとした手を振り上げ、高々と挙手しながらその子は言った。先生はめちゃくちゃ困っていた。周りは俺を遠巻きにして、クスクス笑っている。
 あのときの俺はどうしたんだっけ。
 ひどく惨めだったのはおぼえている。たぶん泣くのを堪えていたのも、なんとなく。

「あら。透くん、いらっしゃい」

 嫌なことがあったり、喧嘩をして母親に叱られたりすると、俺はいつも近所の花屋へいく。唯一のオアシスだったのだ。
 頬にシップ、手にはガーゼ、頭のてっぺんには母親のゲンコツでできたたんこぶを携えて、むっつりとした俺を、花屋の水木おばちゃんはいつでもやさしく迎えてくれた。

「今日のたんこぶは一段と派手だわね」
「……あのクソババア、ぜんぶ俺がわるいみたいに言うんだよ」
「まー、ずいぶん生意気な口利くようになったこと」

 水木おばちゃんは、俺の至極真面目な悪態を可笑しそうにしながら、体力有り余ってるみたいだからお手伝いしてちょうだい、と俺に水がたっぷり入ったじょうろを手渡した。
 店先の花たちに水をまく。ただそれだけで、ささくれ立った心が落ち着いていくのが不思議だった。

「……水木おばちゃん」
「なあに?」
「おれ、一生だれとも手なんかつなげない気がする。……ふつうにしてるだけなんだけど、なんでもすぐ壊しちゃうしさ」

 水木おばちゃんはきょとんと俺を見やり、すぐに声をあげて豪快に笑ってみせた。

「大丈夫よ。なーんにも心配することない」

 ほら、みてごらん。
 水木おばちゃんが、爪に土が入り込んだ指先を花たちへ向ける。さっきまで少し萎れて見えていたのに、水を浴びてたちまちキラキラと輝く緑の葉。ピンクの蕾。黄色の花……。
 花の種類も水木おばちゃんの「大丈夫」の意味も、ぜんぜんわかんねえ。
 ただ、目の前のそれらをきれいだと、やさしいものだと思える。ちっぽけな感情に少しだけ救われた。

「透くんの手はおっきくて強いから、こんなに重いじょうろだって持てるし、お花たちを元気にできるじゃない。だから、そんなに怖がることないのよ」

 嫌な記憶は数え切れないほどある。
 けれどやさしい記憶も、ちゃんとあるから。



「崎くん」

 三賀日が過ぎた、ギリギリまだ冬休み。
 緑坂駅で下車してしばらく歩いていくと、マンションの前に杏ちゃんが立っていた。

「杏ちゃん。あけましておめでと」
「あ、あけましておめでとう……」

 年が明けてはじめて顔を合わせるので、とりあえず恒例の挨拶を交わした。

「崎くん、今日はわざわざごめんね」

 きまりが悪そうにうつむく杏ちゃんに、俺はぜんぜん、と努めて明るい声をかける。
 ほんとは、だいぶ緊張してるけど。
 
『お父さんがね、崎くんに会いたいって言ってるの』
 
 クリスマスから数日後のことだった。
 杏ちゃんから電話で、杏ちゃん父との面会を持ちかけられたのである。
 聞けば杏ちゃん父は、クリスマスイブの件で改めて俺にお礼を言いたい、とのことらしい。そんなのべつにいいのにとは思ったものの、かと言ってここで俺が断ったらそれこそ失礼に当たる気がした。
 まあそんなわけで、今日こうして杏ちゃんの自宅へ赴く運びとなったのだった。

「ただいま」
「お邪魔しまーす……」

 杏ちゃんの家はマンションの五階にある。
 杏ちゃんの後に続き、俺もドアを潜る。すぐに廊下の奥から足音が聞こえてきて、小柄で痩せた四、五十代ぐらいの男の人がひょっこりと現れた。

「いらっしゃい、崎くん。あけましておめでとう」

 クリスマスイブの夜の、あの気まずい対面以来である。

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