ひどくややこしいことになってしまった。

「拓実」
「……」
「おい、拓実ってば」
「……」
「……たっく〜ん」

 ものすごく考え事をしていたら、崎の顔が視界に割って入ってきた。
 夏休みである。最近、崎が毎日俺の家にいる。マンツーマンで崎に勉強を教えているのだ。崎は俺と同じ志望校(県内でも有名な進学校だ)を目指して、中学校の勉強をほぼ最初からやり直している。

「拓実がぼけっとするなんてめずらしいな。熱中症?」
「……冷房の効いた部屋で熱中症になんかなるか。ちょっと考え事してただけだ。で、なんだ」
「ここ、わかんない」

 崎が数学ワークの図形問題をシャーペンで指してみせる。俺が考え事にふけっている間に、もうこんなに進んだのか。崎の進捗レベルには素直に感心する。
 部活で柔道に取り組む姿を目の当たりにするようになってから薄々感じてはいたが、今回改めてわかった。こいつは一度火がつくと凄まじい力を発揮するタイプらしい。それとも、本来の力を今まで意図的に出し惜しみしていたのか。どちらにせよ、俺としては、普段の日常生活においてもその五分の一でいいから力を発揮してほしいと思う。極端なのだ、崎というやつは。
 勉強嫌いで、授業中も睡眠時間にあてているような不真面目な崎が、中学二年の夏というこの時期から真面目に受験勉強に励むようになった。

「好きな子がいるから」

 突然、己の成績からは到底及ばないであろう進学校を目指すと決めた崎に、その理由を問うたときの答えである。
 深追いはしなかったので詳細はわからないままだが、曰く、

「ずっと好きだった女の子なんだ。その子に、少しでも近づきたいから」

 とのこと。

「……崎、」

 崎は、俺にとっていつも青天の霹靂だ。
 いつも腑抜けた顔をしているくせに、そこまで真剣に想う相手がいたなんて。

「なんすか」
「たっくんって呼ぶな」
「……え、遅くね?」

 言えない。でかい体をまるめて、見たこともない真面目な顔で机に向かう崎に、もっと身近にいい相手がいるんじゃないか、なんて。
 自分の一向に進まないワークに目を落とす。いけない、集中しなければ。教える側の俺が志望校に落ちたらシャレにならない。

「そういや、樹ちゃんも東園高が第一志望なんだって」

 シャーペンを動かしながら、崎がこともなげに言った。せっかく動き出した俺のシャーペンは、それでまたピタリと止まってしまった。

「夏休み入る前に久々に話したんだ。樹ちゃん、俺のこと嫌いになっちゃったんだろうなーって思ってたから、昔みたいに話しかけてくれてうれしかったな」

 屈託もなく言葉通りの表情を浮かべる崎に、かすかに胸の奥が淀む。

「あ、拓実、知ってるよな? 二組の樹綾ちゃん。去年同クラだったんだってな。樹ちゃんが言ってた。俺さ、樹ちゃんとは幼なじみで……」
「崎」

 なんだ、この気持ちは?

「悪いけど、今日はもう帰ってくれ」

 部屋が沈黙に包まれる。外から届く蝉の声と、クーラーの稼働音。壁掛け時計の秒針の音が鮮明に聞こえ出したところで、俺ははっとする。

「……あ、悪い。その……今日はこれから用事があったんだった」

 崎は、深く刻まれた二重まぶたの目をぱちぱちと瞬かせ、疑りのかけらもない声で、そうなんだ、と答えた。
 荷物をまとめて帰宅の準備を済ませた崎を玄関まで見送る。罪悪感のような心地が胸を突いて、スニーカーを履いた崎に思わず、ごめん、と謝った。崎はきょとんと俺を見据えてから、鷹揚に笑った。

「なんで。いーってべつに。用事なら仕方ないじゃん」

 たっくんはほんと真面目だな、と笑顔を残し、崎は帰っていった。


 夏休みが明け、蝉の鳴く九月。
 授業の合間の短い休み時間、俺の席の前までやって来た崎がまたしても、たっくん、と俺を呼んだ。

「たっくんって呼ぶな」

 いつも通り睨みつけたつもりだった。けれど、顔を上げて見た崎の様子はいつもと少し違っていた。表情筋がぎこちなく、めずらしく緊張しているような顔をしているのだ。
 どうした、と訊ねる前に、崎がやや躊躇いがちに口を開いた。

「拓実、怒ってる?」
「……は?」
「最近ビミョーに冷たい気がして。俺、なんかした? 気に障るようなことしたなら、ごめん」

 そんなふうにいきなり謝罪した崎に、思わずドキリとした。崎の言う「最近ビミョーに冷たい」に、心当たりがまったくないわけではなかったからだ。
 それでも、馬鹿正直にこの淀んだ胸のうちを吐露するなんてできない。そもそも飼い主に叱られてしょげる犬のような態度の崎を前にしては、こんな気持ち、余計に言えなくなる。

「……怒ってない。おまえの気のせいだ」
「ほんと? なら良かった」

 目を上げた崎が、俺の言葉に対してあからさまにほっとしたように表情をやわらげた。

「拓実は貴重な友だちだし。できればこれからも友だちでいたいんで」
「……保護者の間違いじゃないか」
「あははっ、そうかも」
「そうかも、じゃない。勘弁してくれ」

 こんな面倒くさいやつの保護者でいてたまるか、こっちの身がもたない。
 陽気ににこにこしている崎に、まったく、と思いつつ、しかし心底悪い気分というわけではなかった。むしろ、ちょっとだけ、うれしいとさえ感じていた。「貴重な友だち」だなんて、照れくさい。
 けれど、同時に打ちのめされたような気持ちにもなった。

(俺は、崎には敵わない)

 俺はいつからか、無意識に崎を羨んでいた。
 だって崎は恵まれていると思う。体格も、能力も。柔道なんか途中からはじめたくせに、ぜんぜん乗り気ではなかったくせに、どんどん上達してあっさり俺と並んでしまった。たぶん、お互い本気を出して勝負をしたら、負けるのは俺のほうだ。勉強だって、ほんとうはやればできるんじゃないか。人間性だって、俺は崎のように素直ではいられない。友だちと言われてうれしいのに、俺はといえば、いろんな感情が邪魔をして、同じ言葉を面と向かって口にすることもできない。

(樹が、崎を好きになるのもわかる)

 脳裏に樹の笑顔が浮かぶ。
 ああ、こんなこと、一番理解したくなかった。
 俺が最も羨んでいるのは、崎が樹に好かれていることだった。

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