「あっ、拓実!」
ある日の放課後、委員会を終えて廊下を歩いていたら、ふいに呼び止められた。
振り返ると、去年同じクラスだった樹が、小走りでこちらに近づいてくるところだった。
「樹。どうした?」
「あ、いや、どうってこともないんだけどさ……ひ、久しぶりだね!」
「そうか?」
思わず首をかしげる。
まあたしかに、クラスが離れてから樹と口を利くのは久しぶりかもしれない。
樹は、人懐っこい女子だ。俺は女子の友人というものはいないに等しいけれど、樹は去年一度だけ席が隣同士になって以来、なにかと話をするようになった。
明るくて天真爛漫な樹は話しやすい。クラスが離れた今もこうしてわざわざ声をかけてくれることも、素直にうれしかった。
「そうだ、拓実、最近柔道部どう? 前に部員少なくて困ってるって言ってたじゃん」
「ああ、相変わらず部員は少ないけど、なんとかやってる。こないだ崎が入部してくれたしな」
「……えっ、さき? 崎って、もしかして崎透?」
「そう。樹も知ってるだろ? 今俺あいつと同じクラスなんだよ。けっこう話すようになって、それで……」
急に静かになった樹が、目をぱちくりさせているのに気づく。
「どうかしたか?」
「あ、ううん、ちょっとびっくりして……。へー、崎が柔道部に……。拓実、けっこう話すってことは、崎と友だちなんだ?」
友だち……。そう面と向かって問われるとなんだか小っ恥ずかしい。しかし、「友だちか?」と聞かれればそうなのだろう。いっしょに帰ったりするし、この間の休日ははじめて俺の家に崎を招いた。
俺が肯くと樹は、そうなんだ、とだけ相槌を打った。意外そうな安心したような、なんとも言い難い複雑な表情を浮かべている。いつも喜怒哀楽がはっきりしている樹のそんな表情を、俺は見たことがない。
「……樹、崎と知り合いなのか?」
「うん。幼なじみみたいなもんかなぁ」
意外な接点に驚く。
樹と崎が、幼なじみ。ずいぶん親しみを帯びた関係性である。しかしそれとは裏腹に、樹は言葉を選ぶようにどこか慎重に、崎との今の関係を話だした。
「ちっちゃい頃は同じ柔道場に通ってて、よく遊んでたんだけど、崎が辞めちゃってからは疎遠になっちゃったんだよね。あっ、べつに喧嘩したわけじゃないよ? ただなんか話しにくくなっちゃったというか……。まあそれで、崎が拓実と友だちって聞いて、安心したんだ。ほら、崎のやつ、友だち全然いなそうだったしさ……」
樹の話はわからないようで、わかる気がした。
つまり、時の流れで、幼少期のように崎と気軽に交流できなくなったというわけだ。
たしかに今の崎は周りから無駄に恐れられているし、男女ともに友人の多い樹といえども、とても気さくに声をかけられる相手ではないのだろう。
樹の言葉の調子や表情から察するに、どうやら崎に対してもどかしい思いを抱えているようだ。関係を修復したい、といったところだろうか。
「喧嘩したわけじゃないんだろ?」
「え、うん……」
「だったら、気にせず声かけてみたらいいと思うけど。あいつ、『みんなあからさまに避けるからちょっと寂しい』だとか、実はわりと腑抜けたこと言ってるんだ。それに周りが言うほど、崎なんか恐くないぞ。図体でかいだけで」
「……そ、そうだよね!」
俺の話を黙って聞いていた樹が、やがて大きく頷いた。
「ほんとそうだね。あたし、周りに流されちゃってたかもしんない。拓実がそう言ってくれてなんかすごくハッとした。ありがとう、拓実!」
その言葉通り、樹の表情は霧が晴れたかのようにすっきりと晴れ渡っていた。
まぶしい。
咄嗟にそう感じてしまったほど。
「拓実? どしたの、急に目ぇそらして」
樹の笑顔がまぶしかったから。だなんて理由、とても口にできるわけがない。
曖昧に返答を濁してやり過ごした俺を、樹は若干不思議そうにはしたが、深く追求してくることはなかった。
「じゃあ、俺部活行くから……」
「うん。ごめんね、長話しちゃって……。あっ、そうだ拓実、お礼に今度あたしのオススメの少女漫画貸すね! すんごいときめくやつだから!」
「あ、ああ……」
さっきまでの憂い顔が嘘のようだ。樹はそう宣言すると、春一番のように颯爽と廊下を駆けていった。
「嵐みたいだな……」
べつに礼を言われるようなことはしていないんだけどな。ともかく、樹が笑ってくれてよかった。
俺はなんだかとても充実した気持ちで、廊下を歩いていった。
後日、樹から例のオススメの少女漫画とやらを半ば無理やり貸してもらった。その内容というのが、元気で明るい主人公の少女と、硬派な幼なじみの男子との恋物語。
就寝前に少しずつページをめくりながら(余談だが、少女漫画ってはじめて読んだ)、俺は理解してしまった。
樹は、崎のことが好きなのか、と。
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