「杏ちゃん、どうしたの?」
どうもこうもない。
二年一組の教室から少し行った先の廊下の隅で、わたしは崎くんの腕から手を離した。でも、離れた手が再び、勝手に崎くんの袖口をつまんでしまう。
崎くんが不思議そうにわたしを見下ろしている。
(崎くんがすきなのは、わたしなのに……)
焦りに似た不安な気持ちを消したくて、暗示をかけるように自分に言い聞かせるけど、なんだかひどく慢心しているみたいだった。でも実際そうなのだろう。今日までわたしは、崎くんが女の子に人気があることなど気にもとめていなかったのだから。
だって、崎くんから過去の話を聞いたら、とてもそんなふうには思えなかったし……。
そこで、はっとする。
そうか。わたしはたぶん、「崎くんが恐くない」ということが、崎くんにとって特別な人間の証明であるかのように錯覚していたのだ。
そんなの、特別でもなんでもないのに。たとえばさっきの彼女たちみたいに、きっとそんな人はたくさんいるのに――。
「……杏ちゃん?」
穴があったら入ってそのままこもりたい気分に苛まれる。同時に、わたしってこんなに視野の狭い人間だったのかと、ショックで泣きたくなる。
でも、だけど。
わたしは崎くんの特別になりたい。
「……さ、崎くん」
つまんでいた袖口からそろりと移動して、控えめに崎くんの指先をきゅっと握る。
しばし逡巡したあと、わたしは苦肉の策を口にした。
「あの……ちょっと気分が……ひ、貧血かもしれない……」
「え」
「だからその、保健室に行きたくて……ひゃっ!」
言うやいなや、体がふわっと浮き上がった。
ほんとうになんの躊躇もなく、崎くんがわたしを抱き上げた。人の往来が激しい廊下で、当然そんな行動は人々の注目を集めた。そもそも傍から見れば、番長にだっこされるメイド。いくら文化祭といえど、奇怪な図であろうことは間違いない。しかしそれすら気持ちが向いていないのか、崎くんはわたしをだっこしながら人混みを掻き分け廊下を闊歩してゆく。
「さ、崎くん……!」
「すぐつれてくから、ちょっと我慢してね」
は、恥ずかしい……。公衆の面前でこんなことになろうとは。
けれど、今の状態にどこかで安堵しているわたしがいるのもたしかだった。
周囲の好奇心めいた視線から逃れるように、そしてこの体温にすがるように、わたしは崎くんの肩口に顔をうずめた。
快くベッドを提供してくれた養護の先生が校内の巡回に出てしまい、保健室はわたしたち以外に客人はいない。
窓が少し開いているから、文化祭の喧騒が風にのせて届いてくる。
「大丈夫?」
パイプ椅子に腰を下ろして、ベッドで上半身を起こした格好のわたしに崎くんが問いかける。わたしの体調を案じていることがありありと感じられる真摯なまなざしに、さすがに胸がズキリと痛んだ。
罪悪感に耐えきれず、わたしは早々に白状する。
「崎くん、ごめん……」
「ん?」
「具合悪いの、うそなの」
崎くんがきょとんとする。
「え、うそ?」
「うん……。ご、ごめんなさい……」
「じゃあ、体調はへいき?」
「う、うん……」
「なんだ……」
脱力したように大きな体が項垂れる。それからすぐ崎くんは顔を上げて、笑った。
「よかった」
罪悪感で痛んだ胸が、べつの意味できゅうっと締めつけられた。
崎くんって、笑うとかわいい。
声が低くなって体も大きくなって、たとえ今は番長でも、その笑い方は、わたしの記憶にある幼い頃の笑顔と変わらない。
「でも、なんで嘘なんかついたの?」
「そ、それは……」
責めるでもなく純粋に不思議そうにする崎くんに、うっと言葉が詰まる。
崎くんが女子にモテモテで嫉妬したから、なんてこっ恥ずかしい理由を暴露せねばならぬのか……。
でも、崎くんを無駄に心配させてしまったし、仮病だったとはいえここまで運んでもらったし、ええいままよ、とわたしは腹をくくって口を開いた。
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