▼おまけ
眠ってしまった杏ちゃんの髪をそっと撫でる。
杏ちゃんとクリスマスを過ごせることがうれしすぎて、俺はただの浮かれポンチになっていた。杏ちゃんは、もしかしたら複雑な気持ちを抱いていたのかもしれないというのに。
出会ったばかり頃、俺に「お父さんとお母さんが別れるかもしれない」と話してくれて、そしてそれはきっとその通りになったのだろう。今は父親と二人暮らしらしいし。
俺にとってはいつも凛として見える裏では、杏ちゃんは寂しい思いをしてきたのだろうか――。
「……」
一方で、あのクールな杏ちゃんが俺の前で泣きじゃくったり甘えてくれたり、ずっとずっといっしょにいてねと言ってくれたり……ああ〜人生最高のクリスマスイブだった〜という幸せで悶えそうな心境とのせめぎ合いでなのあった。
情緒不安定もそこそこに、風邪で伏している杏ちゃんを一人残して帰れないよな、と思う。俺が玄関を施錠したとしても、そのまま鍵を持っていくわけにいかないし。
部屋の時計は十時になろうとしている。そういえば、家族の連絡先を杏ちゃんに聞こうとしてたんだった。
さすがにもうそろそろ帰ってくるかな、と思ったら、玄関のほうから物音が聞こえてきた。
「ただいまー」
父親らしき男の声が部屋まで届き、そこで、俺ははたと思い当たる。
待てよ、この状況だけ見たらちょっと、いやだいぶまずくないか? 娘が寝ている部屋に上がり込んでいる男って、お父さん的にだいぶ印象悪くないか? いや、ちゃんと経緯を説明すればいいんだけど。てかよく考えたら、杏ちゃんのお父さんと初の対面……。
この期に及んで混乱する俺をよそに、近づいてきた足音がこの部屋の前で止まる。ドアがノックされ、俺ははじかれたように立ち上がった。
「杏? もう寝てるのか? ケーキ買ってき……」
開かれたドアから顔を出した男が、不自然に部屋のなかに佇む俺を見て、きょとんとする。
細身でやや小柄な、柔和な雰囲気の男の人だった。少しとろんとした目元が杏ちゃんとよく似ている。
いかにも体育会系なうちの父親とはまるで正反対なタイプだな、などとのんきに観察している場合ではない。
「あっ、あの俺……いや僕、杏ちゃ……杏さんと同じ学校の崎透と申します! その、杏さんが熱を出されてしまって、それで、家まで送り届けた次第で……」
怪しい日本語でしどろもどろになりながら、なんとかこれまでの経緯を説明する。
杏ちゃんのお父さんは(まあ当然といえばそうだが)相変わらずきょとんと俺を見上げていて、はたして説明が耳に届いているのか不安だったけれど、やがて、ああ、と頷いた。
「そうだったの。それはどうもご迷惑を……」
「いえ、とんでもないです!」
「えっと、何くんだったかな」
「崎透です!」
「とおる?」
急にまじまじと俺の顔を見つめる杏ちゃんのお父さん。その隔たりのない穢れなきまなざしも杏ちゃんとよく似ているので、俺はもういろんな意味でドギマギしてしまう。
「あ、あの、なにか……?」
「ああいや、なんでも……。どうもありがとうね、崎くん。もう遅いけど、帰りは電車?」
「はい、でも近いんで。そ、それじゃあ失礼致しました! 杏さんによろしくお伝えください!」
杏ちゃんのお父さんに勢いよく頭を下げ、半ば逃げるように部屋をあとにした。
マンションのエントランスを抜けて、駅までの帰路を競歩で進む。
「はあ、ぜったい印象悪かったよな……」
だってまさか、クリスマスイブに杏ちゃんのお父さんと対面することになろうとは……。
冷気で気持ちが落ち着いてきた頃、速度を緩めつつ、歩きながらスマホでメッセージアプリを起動する。今日のところは返信はないだろうけど、とりあえず三つ、杏ちゃんへメッセージを送信した。
「……星、すげえな……」
ふと目を上げると、澄んだ夜空にちらちらと瞬く星がよく見えた。
――プラネタリウム、結局爆睡してしまって内容はほとんど覚えていないけど、隣の杏ちゃんの体温があたたかかったことと、また行こうね、と天使のように笑いかけてくれたことは、俺は生涯忘れないと思う。
首に巻いたネックウォーマーがぬくい。
いろいろあったけど、人生最高のクリスマス(イブ)だった。
16.12.24
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