具体的な立案もないまま、放課後になった。
 帰り支度をしていると、杏ちゃん、と名前を呼ばれて、振り返る。教室の後ろの出入り口のところに、崎くんが立っていた。

「崎くん。どうしたの?」
「いっしょに帰ろ。家まで送るよ」
「え、でも、崎くん部活は?」
「しばらく試合もないし、とりあえず今週は休みもらった」
「えっ。どうして?」
「七瀬さんに聞いた。杏ちゃんがいま大変だって」

 七瀬、いつのまに。
 教室を振り返ると、しかしすでに七瀬の姿はなく、ついでに森くんの姿もなかった。

「杏ちゃん」

 少し張り詰めた声で呼ばれて、崎くんに向き直ると、崎くんはわずかに眉を寄せていた。

「なんでもっと早く言ってくんなかったの」

 あ、怒ってる……。
 いつもにこにこしている崎くんが、わたしに対してはじめて見せる表情だった。だからこそ、わたしはドキリとした。だいぶ気まずい思いで、うつむく。

「ごめん……。言うほどのことじゃ、ないと思って……」
「……俺、信用ないってこと?」

 頭上からぽつりと降ってきた言葉に、弾かれたように顔を上げる。

「ち、違う……! そうじゃなくて……崎くんに言ったら、ものすごく心配させちゃう気がして……。物、盗られただけだし……」
「“だけ”じゃないよ。十分心配されるようなことされてるじゃん」

 語気を強めてそう言われ、崎くんの厳しい表情を見て、わたしははじめて自分の危機感のなさを恥じた。

「ごめんなさい……」

 重い沈黙が流れる。ややあって、崎くんが小さくため息をついた。ぽんとわたしの頭に手が置かれて、おずおずと顔を上げると、困ったような笑顔と目が合った。

「怒ってないよ」
「……うそ」
「うん、ごめん。ちょっと怒った」
「……」
「でももう怒ってない」

 崎くんは、わたしの頭を数回ぽんぽんとやさしく叩くと、その手で今度はわたしの手をとった。

「俺には一番に心配させてほしいな。カレシなんだし、いちおう」

 指を絡めながら、崎くんが言う。

「……いちおうじゃないよ」
「あはは、そう言ってもらえてよかった」

 何も言えないでいると、帰ろっか、と笑いかけられて、頷いた。
 あたたかい大きな手に引かれながら、崎くんって、大人かもしれない、と思った。
 少なくとも、わたしなんかよりもずっと。

 崎くんとの登下校(なんと律儀に朝も家まで迎えに来てくれる)から三日が経った頃だった。
 その日の帰り道、会話の途中で崎くんがふいに閉口した。どうしたの? と、わたしが声をかけるすんでのところで、崎くんが立ち止まり、後ろを振り返った。

「何か用っすか、センパイ」

 驚いてわたしも背後を見やると、少し離れたところに、優木くんの姿があった。

「は? なに、急に……。こっちのセリフなんだけど」
「そっすか。学校から犬みてぇにずっとくっついてくるから、俺に何か言いたいことでもあんのかなって思ったんすけど」

 崎くんの言葉に耳を疑った。
 学校から、ずっと? まさか、尾行されていたのだろうか。ストーカーという単語がよぎり、思わず肩がこわばる。
 いや、でも、ただ単に通学路がかぶっていただけということも十分ありうる。むしろそうであってほしい。
 しかし次の瞬間、崎くんがその可能性を打ち砕く発言をかました。

「つうかセンパイ、家こっち方面じゃないっすよね?」

 えっ、と声が出た。
 なぜ崎くんが優木くんのことを知っているのだろう。わたしが驚きからぽかんとしていると、優木くんはそれ以上に狼狽した様子で、はあ? と上擦った声をあげた。

「なんでおまえがそんなこと知ってんだよ!」
「調べたんで、あんたのこと。二年五組優木隆良センパイ。一年んときは三組で、杏ちゃんと同じクラスだったんすよね?」
「ふざけんなよ、なに勝手にそんなことしてるわけ? 何なんだよ、おまえ……」
「いや、こっちのセリフっすよ。部活の先輩たちから聞いたんすけど、あんたやたら俺のこと調べて回ってるみたいじゃないっすか。なんすか? 言いたいことあんなら直接聞きますよ、いまここで」

 つないでいた手が離れた。崎くんがわたしを自分の内側に隠すようにして、一歩前に出る。
 崎くんの大きな背中越しに、優木くんの苦虫を噛み潰したような表情を垣間見た。

「……ずいぶんいいカレシぶってるけど、調子のんなよ。おまえなんか頭の軽いただのヤンキーだろ」

 自分の発した言葉によって幾らか冷静さを取り戻したのか、優木くんは、目の前の相手を心底馬鹿にしたような口調で話し出す。

「自覚なさそうだから言っとくけど、傍から見たら明らかに釣り合わないんだよ、おまえみたいな不良と徳丸さん。おまえが彼女のこと脅して付き合ってるんじゃないかって、陰でみんな言ってるぜ?」

 崎くんは何も言わない。それをいいことに、優木くんの饒舌に拍車がかかる。
 
「散々他人のこと殴ってきたようなやつが、よく平然と徳丸さんと付き合ってられるよな。いまはいい顔してるけど、どうせそのうち暴力で押さえつけるんだろ? おまえの得意分野だもんな」

 崎くんは何も言わない。後ろ姿はピクリとも動かない。
 いま、崎くんがどんな顔をして優木くんの言葉を受けとめているのか、わたしにはわからない。

 初夏の石階段でのことを思い出す。
 狼みたいな力強い手がぎこちなく、壊れ物にふれるかのようにわたしの手を握ったときのこと。「ほんとうは、杏ちゃんに言っていないことがたくさんある」そうわたしに言ったときの、あの泣きそうに弱々しい表情を。
 ──優木くんは狡い。
 勝ち誇ったような顔で、彼はきっとわかって口にしている。崎くんが最も触れられたくない部分を。
 たぶん、崎くんの一番弱いところを。

「徳丸さんは、嫌々付き合ってんだよ。おまえが知らないだけでさ」

 ブッツン。
 そのとき、何かが派手に切れたような音がわたしの脳天を抜けた。

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