どれくらい経っただろう。
ぽつぽつと人がいなくなり、とうとうこの場所にはあたしとけーた以外誰もいなくなった。
やがて、けーたはあたしに、店の前でまってて、と言った。あたしは、うんと頷いた。
夕焼けの光が消えた建物の前で、あたしはけーたのことをまった。一度あたしの前からいなくなったけーたは、次に現れたときにはあたしの見慣れた服になっていた。いつも「いいこでまってろよ」などと言って、あたしをおいていくときのけーた。
「なにしてんの」
ぼんやりしていたら、けーたがおいていくよ、と言って、あたしをおいて歩き出した。あたしは、両足を動かして、けーたのほんの少しうしろについてゆく。
月明かりがけーたとあたしを照らして、道に影をつくっていた。それを見ながら、ふたりだ、と思う。
月明かりの下を、ふたりで歩いてゆく。
アパートに帰ってきた。
けーたは部屋の明かりもつけないで、窓のほうへ進む。満月、とつぶやいた声が聞こえた。
あたしは、けーたのそばにいく。めいっぱい腕を伸ばして、目の前の背中にぎゅっと抱きついた。
このにおいを知っている。この体温も、知っている。でもこんな気持ちをあたしは知らない。胸がくるしい、ちぎれてしまいそうな、こんな気持ちを。
それでも、あたしはたぶんずっと、けーたをこんなふうにしたかったのだ。
ずっとずっと、こんなふうに、けーたを抱きしめてみたかった。
「けーた」
あたしは、ずっと忘れていた声を出す。
「けーた、あのね、あのね、あたしね……」
猫じゃないから、あたしはけーたと話ができる。
あたしが意外といろんなことを知っているんだって、けーたに伝えたかった。
あたしのおやつの隠し場所。けーたの気分がいいときのクセ。平熱の温度。雨が降るときのにおい。アパートの裏の木陰にひそむトカゲの子。それから、夢で「うみ」を見たこと。
伝えなきゃ。はやく。でも、ちっとも言葉にできない。うまくできない。じょうずにできない。
「――」
けーたがなにか言った気がした。それを理解することも、聞き取ることすらできなかった。
けーたが、あたしの手をつかんだ。
あたしにふりむいて、ひやりと冷たい手があたしの顔をさわった。けーたの薄茶色の目のなかに、今あたしがいる。
けーた、と名前を呼ぼうとしたあたしの口に、けーたの口がふれた。
満月の夜、けーたとふたりで眠った。
おなじベッドで、おなじ毛布で、けーたに抱き寄せられて、あたしは眠った。
ふと目を覚ます。
窓の外から、聴こえる。なにかがささめくような音が。ないしょ話のような、くすくすと笑っているような、そんな音があたしの耳に届いてくる。
あたしは、するりとベッドを抜け出し、外へ出た。
空はまだ暗いけど、夜明けの色が端っこから覗いて見える。人影もなければ猫影すらない。まるで世界にあたしひとりのような気持ちで、ひたひたと冷たい道を歩いた。ひとりだけど、でも不思議とかなしくはない。少しずつ鮮明になってゆく音に呼ばれているように、あたしは歩いた。
やがて、冷たい道は、砂になっていた。
音はもうすぐそこだった。
あたしは、顔を上げた。
「……うみ」
視界に広がる、どこまでも続く水たまり。ザザ、と音を立てながら、呼吸をするように近づいたり、遠のいたりする。
「うみ」だ。
あたしはすぐにわかった。今まで見たことのなかったこの景色が「うみ」なのだと、すぐにわかった。
そっか、なんだ、「うみ」はこんなに近くにあったのだ。
目の前に広がる「うみ」は、いつか夢でみた「うみ」よりもずっと暗い色をしていて、キラキラしてもいなかった。
けーたのうそつき。
「うみ」、ちっとも青くないよ。
ねえ、どうして?
かなしくはなかった。でも、どうしてか、あたしの目からはぽろぽろと涙がこぼれてきた。胸が少しだけくるしかった。泣きながら「うみ」を見ていたら、あたしは少しだけ「まま」のことを思い出した。そして、「まま」がいなくなったあと、けーたに拾われたことを。
けーた、あのね、けーたに拾われた日から、あたしずっとしあわせだった。
ほんとうだよ。
けーた、あたしね、猫だけど、けーたのことあいしてる。
あいしてるよ、けーた。
「こいびと」みたいなキス、忘れないよ。ずっと……。
「……帰ろう」
涙をふいて、あたしは歩き出した。
帰ろう。帰らなきゃ。あのアパートまで。けーたがいる、あの部屋へ。
窓から降り立った部屋のなかは、外より少し薄暗く、静かで、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
ある定位置に目をやると、水とごはんのうつわが、昨日とおなじままで置かれていた。
「……」
今しがたあたしが入ってきた窓からは朝の光が差し込んでいて、それがあたしを照らしている。
あたしは、けーたの寝ている部屋へ歩いてゆく。いつものように。しっぽをゆらして、肉球を踏みしめて。
「けーた、ただいま」
ベッドへ飛びのって、寝ているけーたのほっぺたをぺろっと舐めた。
けーた、あたし牛乳がのみたいよ。
そんなにずっと寝ていたら、猫になるよ。
けーたは、しょうがないね。
猫パンチするしかないね、と思い、あたしが肉球をぎゅっとしたとき、ふいに腕が伸びて、大きな手があたしの頭をなでた。
「……うみ」
寝起きのかすれた声で、けーたが言った。
「おかえり」
16.3.23