「おんなのこ」のからだは、なかなかいい。ちょっとさむいけど。
あたしはソファの上に寝っ転がって、天井に向かって手を伸ばしてみたり、足をゆらゆらさせてみたりした。視界にうつる牛乳みたいに白い手足があたしのだなんて、なんだかいい。
おきにいりの毛布にくるまると、ふふふ、と自然に笑みがこぼれた。
「けーた、なんてゆうかな」
毛布のなかで考える。
「おんなのこ」になったあたしを見たら、けーたはきっとびっくりするだろう。うれしいかな。そうかな。
猫じゃないから、今ならけーたと話もできる。あたしが意外といろんなことを知っているんだって、はやくけーたに伝えたい。
あたしのおやつの隠し場所。けーたの気分がいいときのクセ。平熱の温度。雨が降るときのにおい。アパートの裏の木陰にひそむトカゲの子。それから、夢で「うみ」を見たこと……。
「けーたにあいにゆこう」
あたしはソファの上でからだを起こした。
けーたと話がしたい。そう思えば思うほど、いてもたってもいられなくなった。
今のあたしなら遠くへゆける。猫じゃないから。だから、けーたにだってあいにゆける。
毛布をのけて、ぴょんとソファから飛び降りる。すると、突然くしゃみが出た。
そうだった。「おんなのこ」のからだはちょっとさむいのだった。それに、けーたは外へ出るとき、いつも服を着るのだ。でもなんてことない。けーたの服の場所くらい知ってるし。
けーたの服に身を包んだあたしは、アパートの外に出た。月明かりの道をハミングしながら歩いてゆく。けーたが気分がいいときにそうするように。
少し遠くまで歩くと、夜なのに明るい場所がたくさんあるのだった。
ここにけーたがいる、と思った場所も、夜なのにまるで夕焼けのような光をまとっていた。
ドアを開けて、中へ入る。聴いたことがあるような歌が流れていた。きょろきょろと辺りを見渡すと、まばらに人がいて、みんなテーブルの前に座って話し合っていたり、なにか飲んだりしている。
知っている。これは、「おさけ」のにおいとゆうやつ。けーたがたまに飲んでるやつだ。
「いらっしゃいませ」
あたしの前に誰かが立った。
けーただった。見慣れない黒い服を着て、けーたがあたしの目の前にいる。
けーたは、少し上から、でもいつもよりずっと近いところからあたしの目を見て、おひとりさまですか、と言う。
「……」
「お席、ご案内します」
黙っているあたしに、けーたはそれだけ言って、背を向けた。歩き出す背中を、あたしはただ追いかけた。
案内された長いテーブルの前に座る。なんだか椅子が高くて、座るのにちょっと苦労した。
「未成年?」
テーブル越しにあたしと向かい合ったけーたが言う。
「家出少女?それとも、ホームレス少女?」
「……」
「こんな時間に出歩いて、お母さん心配してんじゃないの」
「……」
どこか冷たい声で、あたしの知らない言葉で、あたしに話す。それでも、そこにいるのは、けーただった。あたしにはそれがどうしようもないほどにわかる。
けーたは、どうやらあたしのことがわからないみたいだった。改めて向かい合ってみれば、そりゃそうだ、と思う。でも、そんなにかなしくはない。よくわからない。あたし、猫だから。
どうしてだろう、なんだかひとつも言葉が出てこない。あんなにけーたと話がしたかったのに。伝えられる手段がすぐそこにあるはずなのに、胸のあたりが苦しくて、声が出ないのだ。
と、あたしの目の前に、コップが置かれた。
中をのぞき込むと、白い水面が甘いにおいの湯気を立てている。あたしはくんくんと鼻を動かす。このにおいを知っている。
「猫いるんだよ、うちに」
けーたが、あたしに言う。
「それ、好きでさ。毎朝それ飲むために俺のこと起こしにくるんだよ。ふつう夜行性だろ?猫って。なのに毎朝、ほんと規則正しくて、やになるよ」
けーたがやさしいまなざしでなにを言っているのか、ちっともわからない。おかしいな。猫のあたしより、「おんなのこ」のあたしのほうがわからないなんて。
でも、かなしくはなかった。この気持ちをなんとゆうのか、あたしにはわからなかった。
あたしは、コップを手にして、湯気の立つそれをぺろ、と舌先でたしかめた。
あつい。思わずぎゅっと目をつむって舌先を引っ込めると、すぐ近くからふっと笑う声が聞こえた。
「フーフーしな」
と、けーたが言う。
あたしはうんと頷いて、白い水面をフーフーとした。それからようやくそれに口をつける。
「おいしい」
と、あたしは言う。
牛乳は朝の飲みものだ。でも、あったかいのは夜に飲んでもいいのだと、あたしははじめて知った。