夕方、バイトから帰ると、部屋はコーヒーの香ばしいにおいがする。キッチンへ行くと、けーたがマグカップに口をつけたまま、視線だけをこっちによこした。カップから離れた口が、おかえり、と言う。
「ただいま」
「夜までじゃなかったの」
「今日は夕方までだよ」
「ふうん」
「けーた、今日バイトは?」
「22時から」
飲み終わったらしいマグカップを洗う音を聞きながら、あたしは部屋の奥へ進む。
テレビが置いてある、DVDやCD、他に小物なんかがいろいろ収納されている棚がある。膝立ちになって、そこをガサガサする。
「何してんの」
ただならぬ気配を察知したらしく、けーたがキッチンからやってきた。尚もガサガサしているあたしに怪訝そうな声をかける。
「何探してんだよ」
「けーた、ばんそうこう、どこ?」
「絆創膏?」
怪我したの、と聞かれて、あたしは自分の指先を見せた。右手の人差し指の腹のところに、小さな赤い点がふたつ、ぷつりとある。
「噛まれた」
「…何に」
「猫に」
ふたつの赤い点を見て、けーたは微妙に眉をひそめる。
「猫って、おまえのバイト先んとこにいるの?」
「ゴマさんじゃないよ。はじめて見る猫。アパートの、階段のとこにいた」
ついさっきである。アパートの階段を上がろうとしたら、不意に陰から小さな猫が顔を見せたのだった。クリーム色で、靴下を履いたみたいに足だけが茶色。まだ子猫だった。そいつは、あたしを見上げて、にい、とかわいい声で鳴くので、あたしはとてもうれしくなってしまった。そっと猫へ近づくと、あたしの足元へ擦りよってきた。あたしは背中を撫でて、頭を撫でてやった。
「それで、顎の下こちょこちょしてたら、いきなり噛まれたよ」
かぷりとやられた。猫って、じゃれてたまに噛んだりする。ゴマさんが全く噛まない猫だから忘れていたけど。
「ないよ、絆創膏。買ってこないと」
けーたがあたしの手をとって、指先に目をおとしたまま言う。
「うん、べつにいいよ」
ガサガサしながらそんな気はしてた。噛まれた痕は、痛いって言うほどじゃないからべつにいい。
噛まれたときに血が滲んだ指先は、痛くはないけど、ちょっとだけピリピリしている。
けーたは傷痕に目をおとしたままでいる。手をとられたあたしは動けない。だから、じっとおとなしくしていた。
(あ。)
あ、と思ったときにはもう遅くて、指先はけーたの口の中へ。小さな傷を、舌でくすぐられる。ピリピリする。くすぐったい。
あたしはなにも言えないで、ただじっとしていた。伏せたけーたの目、長いまつ毛を見ていた。
しばらくして、けーたが指先から口を離した。それでもそこはピリピリしたまま。
濡れた指先。口を離したのに、けーたはまだあたしの手をとったままでいるから、あたしは相変わらず動けない。
「…痛い?」
けーたが囁くような声で聞いた。
「…ピリピリする」
呟くように答えたら、けーたはちょっとだけ笑って、あたしの手を引いた。
たまに床でする。今みたいに。そういうときは、けーたもあたしも服を中途半端に着ている。
部屋は電気を消したので暗いけど、カーテンが開きっぱなしの窓からは月明かりがこぼれている。それをけーたもあたしも知らないふりをしている。
「けーた、」
「…ん?」
「くすぐったい」
けーたが耳をなめたりしてくるから、あたしは身をよじって、ちょっと抵抗する。でもそんなの意味がない。けーたは、ああうん、なんておざなりに頷いて、結局やめてくれない。
くすぐったい。頬や、はだしの足にふれるカーペットの起毛も、普段より熱い息も、服の中で動く手も、耳をなめたりする濡れた舌も。あたしはどんどん敏感になってしまっている。
ぎゅっと目をつむると、耳元で、海未、と呼ばれた。こういうときのけーたの声はずるい。
「っ」
痛みが走って、息をつめた。けーたが首筋を噛んだのだ。けーたはいつも噛んでくる。首筋とか耳とか、あと胸とか。
噛まれる瞬間は、いつもちょっとだけ痛い。「痛い」って言ったら、けーたは噛むのをやめるのかな。そうかな。噛まれる度にそんなことを考えて、あたしはいつも言わないでいる。
どんどん朦朧としていく意識の片隅で、すでに忘れかけていた指先を噛まれた瞬間の痛みを思い出した。
目が覚めたのはまだ早い朝だった。シャワーを浴びようと、あたしは浴室へ行く。
「……」
洗面台の鏡に映った自分を見ながら、首筋の赤い痕にふれた。そこは、ちょっとだけピリピリする。あたしはくすぐったい気持ちになる。
玄関の方から鍵を開ける音が聞こえた。それからすぐにドアの開く音も聞こえてきて、あたしは脱ごうとしていたパンツを穿き直す。
大きな猫が帰ってきた。あたしは浴室を出て、おかえり、と言う。
13.5.13