潮のにおい、波の音がする。


21:00 pm



 半日ほど離れた場所にいただけなのに、ここに帰ってきたとき、なんだか懐かしいと思った。きっと、もう、あたしの中に染みついてしまっているのだ。
 一歩一歩近づく度に、染みついたものはさらに濃くなっていくような気がした。いつもは少し離れた臨海公園から見ているだけだったけれど、今日はじめて砂浜へ降りた。
 砂を踏みしめると、スニーカーが沈む感じにどきどきしながら歩く。途中、こけそうになったあたしを、けーたの手が支えた。なにしてんだよ、と焦ったのと呆れたのが混ざった声がふってくる。

「砂のお城つくりたい」

 そう言ってしゃがむと、けーたは不満そうな顔をしたけれど、結局はゆっくりと腰をおろした。
 向かい合わせになってサクサクと砂を集める。けーたの手はあたしよりもずっと大きいから、あたしよりもたくさんの砂を集められる。
 中指のところから伸びる骨の形がくっきりと見えた。無性に、さわりたい、と思った。人差し指でそこにふれたら、けーたは砂集めをやめて、あたしを見た。

「……なにしてんの」
「さわりたいなって、思ったから」
「砂のお城作るんじゃないの」
「うん、でも」
「なに」
「でも、お城つくってたら、きっとすぐ朝になるね」

 こんな気持ちになるなんて、わからない。どうしてかな。
 自分でもよくわからない気持ちを、けーたにわかってほしいなんて言わないけれど、だけど、あたしは、心のどこかでけーたにわかってほしいと思っているのだろうか。

「けーた」

 大きな手を、あたしのちっぽけな人差し指でふれながら言う。

「あのね、今日、楽しかった。すごく楽しかったよ。今だから言うけどね、あたしずっとどきどきしてた。今日はすごく一日が速いなって、思った」

 どきどきしていた。くすぐったかった。ずっと手をつないでいたことも、けーたに「何が見たい」とか「どうしたい」とか訊かれる度に、とてもやさしくされているような気持ちになって、くすぐったかった。
 けーたは、笑うのかな。そうかな。でも、それでもいいよ。

「けーた、今日は、ありがとね」

 ショルダーバッグから出したそれを、けーたに差し出した。あたしはなんだか恥ずかしくてけーたの顔が見られない。だけど、けーたが目をまるくしてあたしを見ているのがどうしてかわかってしまう。
 ややあって、あたしが差し出した袋を、けーたが受け取った。開けていいの?と訊かれて、頷く。視線は下げっぱなしで、手持ちぶさたにワンピースの裾をいじったりしながら、包装が解かれる音に耳を澄ましていた。

「……おまえ、」

 やがて音が消えて、けーたのため息を吐くような声を聴いた。

「マグカップ買ったんじゃなかったの?」

 あたしはやっと視線を上げた。少しだけ。
 けーたの手には、小さな箱がある。その中身はこちらからは見えないけれど、あたしは中身を知っている。

「マグカップ、やっぱりやめたの。まだ使えるし」

 だから、代わりにピアス買った。そんなよくわからない言い訳をしないと、あたしはけーたの顔がうまく見られなかった。
 最初から、マグカップを買うつもりはなかった。「今日はありがとう」なんて言うのも、ほんとうは建前だ。
 ピアスがほしかった。隣を見上げたら、そこでキラリとするあたしだけのピアスがほしいと思った。無邪気な心で、星に勝手に名前をつけて自分のものにするように。でもあたしのこの気持ちは、きっときれいじゃない。

 けーたの右の耳についた、ブラックの、華奢なリングの形の片耳ピアス。あたしだけの星。

「けーた、三回まわってニャー、なしにしてあげるよ」

 その代わり、ずっとそのピアスをつけてなきゃだめだよ。ずっとつけてないと、百回まわって百回ニャーだよ。
 そうやって脅しているのに、それは、あたしの呪いのピアスなのに、見上げたけーたの表情が思いのほかやさしくて、やさしくて、あたしを見ていて、胸が、ぎゅっと、いたい。
 見透かさないでほしいのに、どこかでわかっていてほしい。あたしのちっぽけな呪いを。きれいじゃない気持ちを。

 大きな手が伸びてくる。あたしの髪をくしゃっとして、それから、あたしは容易くその手につかまってしまうのだ。
 しゃがんでいたので、引き寄せられたら倒れ込むように、バランスを崩した体はけーたの胸にぺたりとくっつく。波の音と、けーたの心臓の音が聴こえる。

「海未」

 不意に、頭にコツンと何かが当たった。デコピンされたのかと思ったけれど、違うことにすぐに気がついた。

「あげる」

 見上げたら、目の前に小さな箱。パステルブルーのリボンがかけられたその小さな箱は、似ていた。あたしがけーたにあげたものと。

「……」
「開ければ?」
「開けていいの?」
「いいよ」

 手のひらの上にのせられた箱の包装を、じれったいほど鈍い動作で解いていく。

「……」

 箱を開けたら、キラリと光った。ブルーの目があたしを見ていた。猫が、二匹。
 あれ、どうして、あたしの手のひらの上にいるの……。

「けーた、あのお店で、何も買ってなかったじゃん」
「……うん」
「いつ、買ったの?」
「ナイショ」
「……」
「……なんで涙目になってんの」
「……わかんない」

 わからない。目の前がゆらゆらしている。言葉が、声がうまく出てこない。胸がいたくて、わからない。どうして。なんで。

「あたし、ピアス開いてないよ」
「知ってるよ」
「……なんで?」
「べつに、好きにしていいよ。なんとなく、なんか……おまえにあげたかったから」
「……なんで?」
「なんでなんでって聞くな」
「けーたのばか」
「なんでだよ」
「……」
「……海未、」

 キスしていい?と、けーたが耳元で囁くように言うので、あたしは懲りもせずにまた「なんで」と聞こうとして、でも、やめた。
 頷きも首を横に振ることもしないで、むっとした目で見上げたら、見透かすようにけーたが笑っていた。
 目をつむった。胸をきゅっとさせる、あまいにおいがする。唇に一度だけふれる。また、ふれる。あたしがおとなしくしていると、またふれて、今度は舌が唇を割るようにしてくる。軽く口を開けて、それで、お互いの舌がふれたら、あたしは小さくふるえた。涙が一つだけ落ちた。

 ずっとこんなことをしていたら、きっともう朝だ。祈るような気持ちで、まだ、もう少しだけ、と思う。それでも朝はくるけれど、あたしは祈る。知らないふりをするから、いいのだ。
 つむっていた目を少しだけ開けたら、キラリと光った。ああ、あたしの星だ。
 けーた、ねえ、どこにもいっちゃだめだよ。



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