99:瑕と花束と






私が褒めたことはメフィストさんに大きなダメージを与えたようで、りんごを剥きつつ身体を……主に脳みそを心配された。

「まひるさんが脳震盪まで起こしていたとは、もう一度医者に見てもらいましょうか。何なら脳改造も特典で付けられますよ」
「余計なことしなくていいですし、頭はおかしくなってませんから」
「私が誰だか判りますか」
「ふざけないでください。メフィストさんのことなんか、一生忘れませんよ」

そう、一生忘れることなどない。

どんなに忘れたくても、きっと忘れられない。身体が、心が、忘却を許さない。そういう記憶になる。そうした傷になる。


……じゃあ、あのとき過ぎった「血」の記憶も、


「メフィストさん、……私、疲れてしまいました」
「おや、ではそろそろ退室しましょうか」
「あの、それじゃあひとつだけ、りんごを食べさせてください」

今度こそ口元を押さえつけていた。よっぽど気色が悪いらしい。これは一興だ。私が甘えるとメフィストさんは劇的に弱る。私がそんな屈辱的な行動に出ることなど想定外だからだろう。どんなにメフィストさんに有効な手立てだとしても、私がメフィストさんに媚びるはずはない。だけど、ちょっとおもしろい。

「は、早く完治するよう最高の医者を用意しておきましょう……このままでは胃潰瘍になりかねない」
「なってしまえばいいのに」
「減らず口を」

無理矢理りんごを押し込められた。ウサギの耳の形に切られた皮が、視界の隅で揺れる。寝ながら食べるのって苦しいなあ。行儀の悪さになんとか腕を動かそうとしていると、ベッドがわずかに傾けられた。リクライニングの操作をしてくれたようだ。

ほ、ほんとうにやさしい……、これじゃあ私のほうが胃潰瘍になってしまう。

「“次”の手はアナタに動いてもらう必要がないので、ちょうどいい療養期間になるでしょう」
「“次”って、」


久しぶりに私はその笑みを見た。それはいつの間にか薄れてしまっていた、彼の本性を私に改めさせる。


「お疲れでしょう、ゆっくりおやすみ」


そうして、病院のドアは静かに私と悪魔を隔てた。あの悪魔が駒を打つ盤上に、私はいない。

なんだ、そっか。


「私、もう何もしなくていいんだ」


突然自由に放り出されたことは少し動揺を生んだけれど、それよりも疲弊した心のほうが勝った。


疲れた、とにかくひどく疲れていた。たたかうことにも、逃げることにも、追い続けることにも、隠れ続けることにも、奪い続けることにも、忘れ続けることにも。何もかもが私を疲れさせていた。


それでもまだ、疲れていたかった。だって、気づいてしまえば、わかってしまえば、私はきっとそこで鍵を開けてしまう。あのパンドラの箱を、開いてしまう。好奇心だけで開けられるような代物ではない、猜疑心だけで開くような代物ではない。

ただひとつ見据えてはならないあの「鍵」が、パンドラの箱を開くもの。



―――もうわかっているから、疲れるんだ。



「だけど、私はまだ逃げていたい。…………そんなことも願っちゃだめかな」



ノックの後にスライドドアがゆっくりと動く。そこには、大きな花束を抱えた勝呂くんがいた。



「ぷ、似合わない」
「やかましい!」




mae ato
modoru