ひだまり(聖川)
「真斗さん!」
「ああ、名か。おはよう。元気か?」
「……はい!とても!真斗さんも元気そう」
「そうだな、体調はとてもいい」
お前に朝から会うことができたから、体調だけじゃなく気持ちも晴れやかだ。
遠くから俺の姿を認め、走ってきた彼女。
あまりお転婆な行為をするなとミカゼさんに言われているにも関わらず、
快活に走ってくる彼女が眩しくて思わず目を細める。
白いローブは跳ねるたびに揺れ、ひとつに結んだ長い髪が朝日を受けてきらきらと輝く。
聖女という二つ名を冠するにふさわしい女性だといつも思っていた。
それに、
「名」
名前を呼ぶだけで俺の心に光が満ちていくよう。
「なぁに?」
声を聞くだけで、胸が高鳴る。
身体に火が燈ったように熱くなる。
こんな感覚を教えてくれたのは、名だった。
*
俺が彼女と出会ったのは、生まれた国を出た数日後。
遠く離れたこの場所へ、時間を掛けて旅をしてきてようやく辿りついた日。
そう、ここに赴任してきた日だった。
景色も食べるものも何もかもが故郷と違って、全てが新鮮に映ったあの日。
俺は、この塔が新しい仕事場だと教わり、ひとりでやってきた。
まず一番近い村までは車で、そこに一泊してから馬に乗って行く予定だった。
新たな生活の場へ至る道には、舗装がされていない為車で通れず、
馬に乗るか徒歩でしか進むことができない箇所があったからだ。
不便だとは思ったが、この旅は決して悪いものではなかった。
右も左もわからない俺をもてなしてくれた村はとても平和で、皆楽しそうに暮らしていた。
「新しい担当者が貴方のような誠実そうな方なら、私たちも安心して暮らせるねぇ」
そういって俺をあたたかく迎えてくれた。
だが、正直、村での出来事はよく覚えていない。
長旅で疲れ切っていたし、見るもの触れるものすべてが新鮮で刺激的で、ひとつひとつに対応するだけで精一杯だったのだ。
夜、村人たちが総出で開いてくれた歓迎の宴がようやく終わって解放されたときには、
心の底から安堵したものだった。
薄情だろうか。
しかし、当時の俺には容量オーバーだったのだ。
その村には観光客用の豪華な宿があった。
長閑な村には不似合いの洗練されたレンガ造りの近代的な建物。
「この村には、あの塔へ行く関係者が多く経由していく。休んだり、泊ったりね。だからいわゆる観光用に、建てた建物なのだよ。よそ様用の建物ってやつさ」
この村の風景には少し合っていないようだと感じていたところ、そう村長が教えてくれた。
あの塔というのは俺の新しい勤務地のこと。
聖なる白亜の塔と呼ばれていた。
通された部屋は1人用だったが、広くてとても綺麗だった。
間接照明が多く付けられており、一つ一つが淡い光を燈し、暗がりを優しく照らしている。
家具は白を基調としたものでまとめられ、所々に瑞々しい花々が活けられていた。
窓を開けて風を通す。
ここからは、明日俺が足を踏み入れる「聖なる白亜の塔」が見えた。
鬱蒼とした森のちょうど中央辺りから、少しだけ顔を出す白く高い塔。
どうしてあんな場所にあのような建物を造ったのか。
まず不便だ。
高位の聖職者が籍を置いていると聴いたが、彼らが外に出る為に移動手段が限られてしまう。
だったら、あんな森の中ではなく、もっと……例えばこの村の傍に作ればよかったのではないか。
逆に考えてもそうだ。
俺のようにずっとあの場所に留まる者ならば問題ないであろうが、
たびたびやってくるような者にとっては、大変不便な場所にあることは間違いない。
なにより周囲の森が不気味だ。
四方八方を黒い森に覆われている。どこから誰が入ってくるかわからないではないか。
その不安の通り、あの森には山賊がいると聞いた。
彼らに日常を壊される危険はないのだろうか。
……わからないことだらけだった。
少しだけ酒を飲んだからだろうか。
それとも明日のことを考えて緊張しているのだろうか。
火照った身体に、夜風が心地よい。
そのときだった。
「……歌?」
風にのって微かに聞こえてくる人の声。
少女の歌声だ。
村人たちが歌っていたような賑やかなものではない。
繊細でどこか切なく、それでいて慈愛に満ちた歌声。
耳から入ってくるその声は一瞬で俺の身体を満たした。
不思議な高揚感を覚える。
「なんだ、この感覚は……」
俺は自分の両手を見つめる。
自分に特別な力があるわけではないが、何か気力のようなものが湧いてくる、不思議な歌。
「これが……聖女の歌声……?」
村人たちが言っていた。
あの塔には聖女がいるのだと。
不思議な力を持つその聖女が、神に仕えることによって自分たちを守ってくれているのだと。
風向きによって時々聞こえてくるその歌声は、大層美しいものだと。
「そうか……この歌が……」
讃美歌のような、子守唄のような。
不思議な響きを持つメロディだった。
その言葉は聞いたこともない言語で紡がれている。
俺はうっとりと目を閉じる。
さっきまで感じていた高揚感は安心感へと変わっていた。
まるで優しく抱きしめられているような、
優しく髪を撫でられているような、
あたたかいぬくもりを感じる。
「…………」
俺を……こんな気持ちにさせる聖女とはどんな凄い人なのだろう。
そう、胸が高鳴った。
もはや新しい職場に足を踏み入れることよりも、彼女に会うことの方が大切な気さえしていた。
聖女への憧憬は、やがて恋心へと変わりゆく。
それは、ごく自然なことだと感じた。
*
「どうしたの?ぼーっとしちゃって」
「あっ、ああ……すまない。まだ少し寝ぼけているようだ」
昔のことを思い出していたら、彼女が心配そうに顔を覗きこんで来たから慌てて距離をとる。
あまり彼女のそばに寄ると、あの人に怒られてしまう。
「今日はミカゼさんは?」
「藍ちゃんならいま外だよ。なんだか今日ね、お客さんが来るみたいなの」
そうだった。
今日はこの地方を統治している領主様が訪問することになっていたのだ。
「そうだったな。俺も裏庭から花を摘んでこなければならないのを思い出した。来客をもてなさなければならない」
「えっ、じゃあ私も行こうかな?」
胸の前で両手合わせて笑顔を零す彼女。
しかし俺はそんな彼女を制する。
「だめだ。朝の祈りは済ませたのか?お前の歌を聞かないと、1日が始まらないであろう?」
「あっ、そうだった……礼拝堂、行ってくるね」
「ああ、気を付けてな」
「もぉ、礼拝堂はすぐ隣だよ?目を瞑ってたって着くよ」
「ははは、そうか」
「真斗さんは心配性なんだからー!」
ふふふ、と笑って名は手をひらひらと振る。
そして、”じゃあね”とひとつ言葉を残して俺に背を向けた。
「…………」
こんな他愛のないひとときが、
俺にどれだけ幸せをくれるかお前は知らないだろう。
彼女が1人でいること自体、稀だ。
いつもはミカゼさんが彼女のそばを離れない。
必要以上に彼女に接すると、後で咎められることもある。
だから、彼女とはあまり一緒にいられない。
それが苦しい。
だけど、俺が彼女に近づきたいと願う欲望を抱いている結果、
彼女に迷惑を掛けてしまうと考えると恐ろしい。
ミカゼさんは完璧で優秀、最高位の聖職者だが、
名のこととなると自分を失うこともしばしばだった。
彼女のことは全てミカゼさんに任せておけばいい。
そう思ってはいたが、
完全には自分の気持ちを抑え込むことができない。
「俺も、まだまだだな」
彼女が笑って暮らせればそれでいい。
穏やかに日々を過ごせたら、それが一番なのだ。
そう言い聞かせて、俺は裏庭へと歩き出した。
さくり、さくり。
毛の長いカーペットを踏む自分の足音が広い廊下にこだまする。
領主さまというのはどのような人なのだろう。
故郷からこの地にやってきて数カ月経つが、今日初めてお目に掛かる。
「良い方だとよいのだが……」
窓の外を見遣る。
気がつけば、晴れ渡っていた空に灰色の雲が広がり始めていた。
「雨か……?」
まだ降り始めてはいないらしい。
青い空と、黒い雲の境界線がはっきりと見える。
〜♪
そして微かに聞こえる、彼女の歌声。
俄かにさざ波立つ心にやすらぎを与えてくれる歌声。
俺はふと抱いた悪い予感を振り切るように、かぶりをひとつ振った。
*続く*