13
一期は適当に頼んだカフェ・オレに口をつけた。
普段の彼が決して口にしないような安っぽいそのストローに見合った味であったが、今は気にならない。
喉を通る冷たさは感じるが、味を判断することができていないようだった。
飲み込んだ水分の塊が、喉を滑り落ちたその時、後ろから声がかけられる。
女性の声に、一期はどきり、と胸を高鳴らせて振り返る。
「あの、お一人ですか?」
一期は声をかけてきた女性を目にした瞬間、今までの全てが無に帰るのを感じた。
表情は柔和に保ったまま、彼はスッと立ち上がり、無言でその女性の横を通りすぎる。
そのままゴミ箱へ直進して、一口しか飲んでいないそのコップの中身を飲み残しに捨てる。
手首についた腕時計で時間を確認しながら、眉を寄せて考える表情を作る。
握り潰すようにしたコップをゴミ箱に押し込んで、カツカツと音を立てながらその店を出た。
と、瞬間、彼に声がかけられる。
「一期さん!ごめんなさい」
駆け寄ってきたその姿に、一期は先ほどの胸の高鳴りが再発したのを感じる。
だが、決してそれを表に出したりはせずに、甘く微笑みかけた。
「ああ…良かった」
少しだけ腰を曲げて、顔を近づけて心配そうな表情へ変える。
目を見開いた日華は視線を彷徨わせてから、俯きがちに頭を下げた。
淡いピンクのワンピースに白いカーディガン。
足元は落ち着いたベージュでヒールのあるサンダルだ。
髪はくるりとカールしており、揺れるたびにふわりとシャンプーだろうか、柑橘の香りが薫る。
「遅れてしまってすみません」
「どうか、されたのですか?」
物腰柔らかに問いかけた一期に、眉を下げた日華は言いにくそうに口を開く。
「えっと、恥ずかしいのですが…道に、その…迷って、しまって」
本当にすみません、ともう一度頭を下げた彼女に、虚をつかれたのかパチリと瞬いた一期は堪えきれないというように吹き出した。
え、と顔を上げた日華に、そうっと手を伸ばして、頬に触れる。
突然の行動に目を白黒させる彼女の事を、真剣に見て少しだけ心配そうに首を傾ける。
「何かあったのでは、と心配していたのですが…存外に可愛らしい理由で良かった。では、行きましょうか」
頬の手を自然に彼女の手へと重ねる。
その流れで自然に車道側を歩き始める彼は、軽く腕を引いて動きを促す。
自然に一歩を踏み出した彼女は、そのまま誘導されるようにゆっくりと歩き始めた。
二人が楽しげに会話をしながら向かう先は、少しだけ街中の喧騒から離れた場所にある美術館だ。
小説の好みが似通っていたらしい一期と日華は、直接会話こそしたことがなかったものの、相手の好みはなんとなく知っていた。
それは小説だけではなく、それ以外の芸術についてもだ。
もしかしたら、感性が似ていたからかもしれない。
彼の口から紡ぎ出される巧みな会話は洗練されたものではあるが、それを感じさせることなく、彼女の中へとスルリと入り込んだ。
その事実に気がついた日華は小さく笑う。
くすり、とした笑みに一期が気がつかないわけもなく、どうかされましたかな?と柔らかく問いかけた。
「ばみくんの、言ってた通りだなって思いまして」
「晴海が…ですか?」
「ばみくんって、はるみくんって言うんですね…」
突然の事実に彼女は目を丸くする。
あの喫茶店はあだ名だからこそ成り立っている部分もあるのだが、本名を出されるとわかりにくいというデメリットもある。
が、彼に問われたことに答えていないと気がついたのだろう、申し訳なさそうに眉を下げてから一期の顔を見上げた。
「ばみくんがですね、一期さんとなら話が弾む筈だって、教えてくれたんです」
本当だなって思って、そう言って恥ずかしそうに目元を染める日華。
一期はパチリと何度か瞬いてから、一気に破顔した。