悪逆 | ナノ



全くいつも通りに見えたのに
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彼女に横領していた官吏たちを引き渡して、名前を呼ばれて気がついた。
私は、彼女の名前を、聞いていない。
勿論知ってはいる、知ってはいるが、彼女から教えられたものではないのだ。
そう思って、罪人を引き渡した後、二人きりになってから、彼女を見上げた。

全くいつも通りに見えたのに

「…何だ?褒美でも欲しいのか?」
「はい!」

彼女は俺の返事に驚いたように瞬いてから、何だ?と首を傾げる。
一度、ごくり、と喉を鳴らしてから、深呼吸。
にこり、笑顔を向けながら、問いかける。

「名前を、教えてください」
「…知らないで仕えていたのか?」
「まさか!でも、貴女から教えてもらわなくては、呼んではいけないような気がして」

俺の返事に、彼女は面食らったように目を見開いた。
それから、少し考えるようにして、肩をすくめる。
小さく、本当に微妙な位だったが、口角をつり上げて、彼女は告げた。

「…氷雨、そう呼んでくれ」

その名前は、俺が記憶していた名前とは全く違うものだった。
だが、その名前を名乗る彼女の声は優しさに満ちている。
もしかしたら、私に名乗ってくれた、その名こそが、本当の名前なのかもしれない。
そう思うと、己を認めてもらえたのだと、そう思えた。

「氷雨様、」
「…ああ、何だ?」

無表情のままではあるが、彼女の、氷雨様の瞳には己がしっかりと映っている。
今まではよく見えなかった、その黒い瞳に吸い込まれるような気持ちになる。
なんて、綺麗な瞳をしているんだろうか。
純粋に澄んでいて、意志の強さを現しつつも、何処か傷ついたような。

「ありがとう、貴女に出会えて、私はとても幸せだ」
「…私が名を教えた位で大げさな。こんなことで喜んでいては、婚姻など結べぬだろう?」

ふ、と面白そうに笑いながら、首を左右に振る。
婚姻、か…。
そういえば、実家にきていたお見合いから逃げて、色々あって此処に来たのだ。
私をじっと見つめる氷雨様は…酷く柔らかな色合いで、言葉を待っていた。

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