5.ラチェット先生
小さな頃、お伽話の絵本ばかり読んでいた。
文字だけの本は苦手で、なるべくたくさん色を使った絵本を選んで、施設の小さな図書室の、窓際にある背の低い本棚に登って、太陽の光を当てて読んでいた。
眩しくて読みにくいけれど、確かに光が当たって、本にスポットライトをあててあげている気分。
お伽話は、「ひめ」のつくものはたいてい読んだ。白雪姫、シンデレラ、眠り姫、親指姫。
綺麗なドレスの色を指で撫でては、主役のお姫様に憧憬の思いを抱きながらも、小さな違和感を拭えなかった可愛くない子供時代。
このお姫様達は、恋い焦がれたのだろうか。
どの絵本にも、お姫様が王子様に恋をした描写がなかったのだ。
お姫様の動向はどうでもいいけど、「いつまでも幸せに」暮らすという憧れに詰まったその絵本たちを何度も読んだ。ただ、その世界に惹かれた。怖くて、不思議で、単純で、煌びやかなその世界に。
なぜ「愛されれば幸せになれる」事しか教えてくれないのか。
自ら恋をして、もう離れたくなくて、何もかも捨てて、と一番感情移入できたお伽話は、人魚姫だけだった。
けれど、想い続けた結果、人魚姫は泡となって消えてしまったのだ。
それでも幸せだと人魚姫は泡になった後言った。
嘘だ。
そんなの。
…多分、書き手の伝えたかった事の半分も私は分かっていないんだと、思う。
いつか、分かる日が来るのかな。
オライオンに会いたかった。
2
ラチェットはため息をついた。先日崩れた障壁の被害者、戦場に出向き、自らの体を張って自国を守り傷付いた兵士。毎日医者ばかりが働きづめだ。
今月に入って休んでいない。
しかも、冒険だかなんだか知らんが首都圏から"外"に出て、原因不明の病気を持って帰ってくる輩がここ何年かでかなり増えた。
まあ、そんなやつらはだいたいアークに帰ってきた時点で、精神に異常をきたしているからそちら専門に送ってしまうが、少しだけラチェットの研究心をそそられるものがあるのは確かだった。ジャズかバンブルビーの定期検診の時に依頼してみるか。外の毒気、通称「黒の風」について。よし、そうと決まればメールしてみよう。
ジャズやバンブルビーが帰ってくる頃には、障壁被災者も、負傷兵も、数が落ち着いているだろうし。
常に空っぽの時間がないドクターの頭の中はそんな風にくるくると小宇宙を作りながら、西病棟と東病棟を繋ぐ通路にひっそりとある、ドクター用の小さな休憩室のパイプ椅子に腰掛けて、かなり遅めの簡単な昼食を取っていた。
夕方6時。
窓から差すオレンジ色の夕日は、今日も本当に忙しかったという感慨だけしか置いていかない。
そんな窓から、ひょっこり顔を出したのは、最近よく来る幼なじみだった。窓の向こうでゆらゆら揺れて手を振る彼女が、開けて、と窓のロックを指差す。
ここ、6階だぞ。
ラチェットは立ち上がり、食べていたサンドイッチを置いて、窓のロックを解いた。ライトスピードのケツに乗った彼女に笑顔を見せ、前に乗った見知らぬ男を一瞥した。
「あー、ありがとう」
手を貸すとレイラは入ってきて、そして窓の向こうのライトスピード男に振り向いた。
「ありがとブラックアウト!!!今度奢るね!!スコルポノックも一緒に」
レイラの言葉にすちゃっ、と手だけ上げて、男は走り去っていった。
はぁー、と言ってパンパンと服を正した彼女は、ラチェットに微笑んだ。
「よう!ドクター!」
なんだ、そのテンションは。
「レイラ、何回言えば分かるんだ、受付を通れ。ちゃんと」
腰掛け直し、サンドイッチを片づけた。
「あ、おみやげ買ってきたのに、食べちゃったんだ?」
デバステベーカリーと書かれた袋を掲げられてしまうと、あ、それなら食べる、と言わざるをえない。デバステベーカリーは、デバステイターが姉妹店を出しているパン屋で、ここの"かりかりベーコンポテトフランス"が、ラチェットもレイラも大好物なのだ。
「しかも焼きたて」
「おお、さすが」
カリッと焼かれた、ブラックペッパーのきいたフランスパンを食べながら、レイラは、神父に頼まれていた本を手渡した。
「例のブツですぜ、ダンナ」
「相変わらず変なテンションだな、ありがとう」
レイラはラチェットの前でだったらかなりおちゃらけて話せる。不思議な人なのだ、ラチェットは。淡いアッシュゴールドの髪に、女の人よりも繊細そうな彫りの深い目元、目はアクアブルーで全体的に色素は薄く、背はスラリと高い。白衣を着て、今日はどうされましたか、なんていわれた日には、きっと病気も月まで飛んでいってしまうような端麗なその容姿に、子供の時から一緒にいるレイラでさえも、時々どきりとしてしまう。
「で、今日はどうされましたか?受付も通らずに」
「受付でラチェット先生いますか?って言ったらいつも、"いません"って言われるから」
「え」
「多分たくさんいるラチェットファンに間違えられてるみたい、私」
そう言ってため息をついたレイラにラチェットは笑った。久しぶりに声を出して。
「もう、すっごく迷惑!!」
「幼なじみって言ったらいいじゃないか」
「信じてもらえないでしょ、それこそ」
また笑ったラチェットにムスッとした表情を返して、それから、フランスパンを三分の一くらいかじったところで、手を止めた。
「なんだ、もう食べないのか」
レイラは黙って頷き、あとで食べる、と言った。
「ラチェット…」
笑うことを止めたラチェットは、レイラの一瞬の表情を見逃さなかった。
「眠れていないのか」
レイラはラチェットを一瞬だけ目を見開いて見て、それから、俯いた。
「ううん、寝ては、いる…」
「その割には顔色がすぐれんな」
「寝れてるつもりなんだけどなぁ、薬は効くし…」
「入眠剤に変えるか?安定剤よりそっちがいいんじゃないか」
ラチェットは表情を変えずに、医者顔で淡々と聞いてくる。いつも優しい表情のラチェットとは違う、この医者顔のラチェットがどうも苦手だった。一日中何人も相手しているのだ、いちいち感情移入していられないのは分かるから、レイラは何も言えなかった。
「夢は見るのか?」
ドグッ、といきなり胸に杭を打たれたような気持ちになった。一気に高鳴った心臓の、音が聞こえる。レイラは固まった。
「どうした、見ないのか?」
レイラは目線を泳がせて動揺したような表情を見せたので、ラチェットはますます分からなくなった。レイラが少しの沈黙のあと、口を開く。
「あ、うん。たまに、見るけど…」
「夢を見ている間は眠りが浅いと言われてる。確実に眠れる薬がいいだろうな」
そう言ってラチェットは立ち上がった。
「あ、ラチェット」
ん、と見てくるまっすぐな瞳に、微笑んだ。
「ラチェットも忙しいでしょ、だからたくさんもらって帰るよ、今日は」
ラチェットは一瞬だけ空白の表情になった。
「お気遣い感謝する、だがなんだかんだで忙しくしててもこうやって6階からでも乗り込んでくる患者さんだからな」
レイラは
少し寂しそうに笑った。
「だがあんまり薬に頼るなよ、慣れ過ぎたら効かなくなるんだ。そういう薬だ、あれは」
頷いた。それから、ちいさく、ごめんね、と言った。
「…レイラ」
「ん?」
立っているラチェットを見上げて、レイラは首を傾げる。
「私にも言えないことか」
「え?」
レイラの胸はまた高鳴り始めて、苦しく締め付けた。
「最近何を悩んでる」
「え、悩んでないよ!」
即答すぎてわざとらしかった気がした。ラチェットになんだか色々悟られるのが一番心配だった。軽蔑されそうな気がしていた。ラチェットは医者顔から、少しだけいつものラチェットに戻っていた。
「じゃあそんな顔をするな、皆が心配する」
ラチェットが少しだけ厳しく言うので、泣きそうになった。恥ずかしくなった。
「ご、ごめん…」
ふ、と仕方なさそうに微笑んだラチェットは、もういつもの、幼なじみのラチェットだった。
「とにかく薬は出すが、内にため込むな。お前の小さい頃からの悪い癖だ」
神父と同じ事を言うラチェットに、微笑みながら頷いた。
直接私がもらってくるからここで待っていなさい、と言って、ラチェットは出て行った。
窓は少しだけ開いていて、夜の匂いを吸い込んでいる。
悩んでる?
と言われても、悩みではない気がして言えなかった。しかも、夢でしてしまうことは、とても人前で言えるような事ではない。
どんな風に説明していいか分からなかった。
夢の中だけの住人が、あんなにリアルだろうか。
もし彼が、夢の中だけの住人だとしたら、私は相当重症だ。
誰に言っても、どうしようもないのだ。所詮は夢で、誰かが信じてくれても、それを何者だと分かっているのは、きっとこの世でプライマスだけなのだ。
今日は新月だ。
星が邪魔されることなく輝き始める。
とにかく話をしなくては。
また夢に堕ちなくては。