実写パラレル/美しき悪夢 | ナノ
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6.もうひとりの彼

…もっと、力が欲しい
……俺に、力を



では奪え
すべてを欺け
自らの命の力さえも
闇に還せ




光に属すものは全て闇の力を弱らせる。
慈しむ心や、情けや、育み、生み出すこと。
それから、愛すること
愛してはならない、決して



"ずっといっしょにいてね"
"おらいおんと、わたしと、…ろん"
"ずっとずっと、いつまでもいっしょにいてね"



─────…
意識がはっきりしてきた。ということは、そろそろ彼女が此処に堕ちる時間だ。記憶が曖昧だ。
さっきのは、過去の記憶か?
…分からない。
だが、レイラに会えば、いつも何か見つかるような、つかえているものが取れるような、気がした。
男は知りたかった。何故この昼も夜もない世界に、自分が彷徨っているのか。






病院の匂いは嫌いだけど、ラチェットからほんの少しだけするシトラスの香りは大好きだった。
子供の時から知っている香り。施設の共用水道の蛇口にネットに入ってかけられた石鹸の香り。それと同じだ。
ライムイエローの石鹸は、小さい頃、ラチェットみたいだといつも思った。髪の毛の色が似ていたし、固くて、泡立てたら真っ白な泡が粗くたつ。
ラチェットは、いつも手を洗っていた。何をした後でも必ず。休み時間のたびに手を洗う。
年長だったラチェットが、真っ黒に汚したアイアンハイドの膝や、バンブルビーが泥遊びした手のひらも、文句を言いながらごしごし洗っている姿を思い出す。
今でも同じ匂いがするから、きっと同じ石鹸を使っているのだと思った。そう思っただけで、ひとりではない気がしてくる。何も変わっていない。ただ自分たちの見てくれが、ちょっぴり大人になっただけ。
そんなちょっぴり大人になったラチェットは、あの後急患が入ったらしく、薬は代わりの看護士が持ってきた。整った顔立ちの彼女は怪訝そうにレイラを見ながら余所余所しい態度で、二十日分です、と言った。
礼をしている間に出て行った看護婦に静かに憤りながら、随分くれるなあと思い、必要なだけこまめに取りに来いと言っていた、忙しいラチェットの気が変わったのかと思ったら、少しだけ孤独な気持ちになった。
…いったい誰に縋りたいんだろう。

また昨日のように、指の腹でぱち、とアルミを押す。気持ちのよい音で薬は弾け出て、そのたびにこの薬を、オライオンのところに行く片道切符だと酔った。
今の思いを誰かに言ったら、心底馬鹿な女だと言われるに違いないと思いながら、ふわふわしたブランケットにくるまって、ぎゅっと瞳を閉じた。





柔らかな若草の青々とした匂いで、目を開けた。
太陽の光をたくさん浴びている草はより鮮やかで、小さな花は所々でひっそりと緑の中からその存在をアピールしている。
目線を上げると、白と水色の斑尾な鬣をゆらゆらさせている全身真っ白な馬が、蒼い瞳をこちらに向けていた。
その規則正しく体に沿った滑らかな毛並みを優しく撫でてみる。

「彼、どこにいるかわかる?」

話し掛けて馬が喋ったらどうしようと思ったが、白い馬はその言葉を無視するように、たたんでいた背中の羽根を伸ばした。大きな羽根が、風を孕んで開いた。
蒼い目をした白い馬は、蹄で大地を重たく押し蹴り、宙に舞い上がる。
わっ、と驚いて見上げた拍子に、若草のびっしり茂った地面にぺたりと尻餅をついてしまった。

「あた…」

臀部をさすりながらもう一度見上げた時には、白い馬は空に光の軌跡をただただつくり、走り去って小さくなっていく後ろ姿しか見えなかった。

『───待ったぞ』

声は、馬が残していった風の先で、聞こえた。
男は穏やかな表情で草原に直に胡座をかいている。銀色の髪は風になびいていて、ミルク色の柔らかなシャツは、彼の締まった体のラインが分からないくらいゆったりしている。裸足でナチュラルカラーのボトムを履いて、ただ風に身を任せて空を仰ぎ、眩しそうに目を細めて、

『いい天気だ』

と一言洩らして、そのままのけぞり、寝そべった。その姿を見て、今日は"優しいオライオン"の日だ、と思った。





オライオンには、見た目は全く一緒なのに、切り離したような"二面性"があった。ひとりは、今目の前にいるオライオン。決して話上手ではないものの、とにかく穏やかだった。最初に出会ったのも、"こっちのほう"の彼。彼に名前を聞いた時、とにかく思いつく単語が"オライオン"しかない、と言ったので、それから彼をオライオンと呼ぶことにした。
本当にオライオンという名前なのかも分からない。しかしそう呼ばれる事を拒否しなかった彼は、とにかく色々な質問をしてくる。夢の中ではなく、起きている時の世界の事。そして、知っている事を教えてあげると、

『行ってみたいな』

と必ず言うのだった。

そして、昨日会ったもうひとりのオライオン。漆黒のフェドーラ帽をかぶり、紳士的ないでたちをしているにもかかわらず、巧みに煽り、そして有無をいわせず貪り抱く。彼とは殆ど話をしなかった。そんな時間も惜しむようにただ官能的な時間にめいっぱい酔わされて、朝がくる。

けれど結局、どちらのオライオンも好きだった。
どちらも表情は真逆だが、焔色の瞳は底無しの力で惹きつけるし、姿は全く一緒だし、同一人物だと確信しているから。
この夢の世界には、自分と彼しかいないのだ。

歩み寄って、彼の横に並んで寝そべった。夢の中でも、太陽は暖かい。
首を捻らせ、レイラを足先から頭のてっぺんまで眺めた。

『今日は水色の服か』

ん、と自身を顧みる。今日は水色のAラインのワンピースだった。昨日もワンピースだった気がする。起きている時は着たこともないのに。

『よく似合う』

全て言い終わる前に、捻った首を元に戻して空を仰いだ。
不器用にそう言った彼に微笑んで、ありがとう、と言った。彼は此方を向かなかった。目線を空に移す。

『お前がくる前に夢を見た』
「夢?」
『おそらくな』
「どんな夢?」
『…幼い頃の夢』

レイラは跳ね起きた。突然素早く身を起こしたレイラに些か目を見開いた彼の視線は起き上がったレイラに向けられた。

「どんな夢っ?」

わかるかもしれない、彼が何者か。

『いや…』
「辿っていけば、あなたがどこからきたのか、分かるかも!!」
『そうだな…』
「?」
『だが…、声しか聞こえなかったのだ。幼い声と、それから、オライオンという名前だ』

思わず笑顔が止まった。

「じゃあやっぱり、オライオンって名前が本当の名前、かもね」

ふう、と息をついてそれからまた、その場に寝そべった。

『今日はどんな日だった』

話を振られたレイラは、今日の事を思い出す。

「今日は…ブラックアウトのライトスピードに乗せてもらった」
『ブラックアウト?』
「うん、職場のともだち。買ったばっかりでね、MH-53っていう最新型だって言ってた」
『ほう』
「それから、パン屋さんに行った」
『ぱんや』
「うん、焼きたてのパンが買えるの」

ぱん、と発音されたそれが何かは、分からなかった。だが、きっと熱い食べ物なのだと、想像した。

「ラチェットから薬をもらって、看護士にむかついた」
『かんごし?』
「ラチェットの手伝いをする女の人」
『へえ』
「綺麗な人だった」
『…行ってみたいな』

レイラは彼に顰めっ面を作ってみせた。ふっ、と笑った眉の下がった銀色の髪のこの人に、胸をつぶされるような、泣きそうになるような不思議な気持ちが、内側で充満した。
ずっと此処にいてあげたいと、思う。

けれども、彼には触れられなかった。

まだ、手すら握った事がない。"こっちの"彼はそんな行為を一切求めてこない。まるで触れあうことさえも記憶から飛んでしまって、触れることを知らないかのように。
"昨日のほう"の記憶は、彼には一切無い様子だった。
触れ合った熱い記憶はレイラだけが持つもので、"こっちの"彼はこの爽やかな草原と太陽がよく似合う人だと、本当にそう思う。
視線に気づいた焔色の瞳がレイラを捉えた。

『また、明日も聞かせてくれ』
「え、もうそんな時間?」
『いや、まだお前の意識は此処にある。ただ、今、そう思ったから口にしただけだ』

レイラは微笑みを返した。

「本当に、どこにいるんだろう、本当のオライオン」
『ん?』
「もし、居場所がわかれば、あなたに会いに行きたい」

今度は、オライオンがレイラに微笑みを返し、そうだな、と言って笑った。

『…それにしても、変な会話だ』
「え?」
『今会っているのに、会いに行きたいというのは…』
「…た、確かに」
『…だが、いつかお前の世界に行ってみたい』

夢の住人らしいそのせりふは、本来切ない筈なのに、レイラは温かく満たされた。

「うん」

希望がある言葉だと思った。

『感覚としての記憶しかないが、俺が知る場所は、多分冷たい』
「寒い地方にいた、ってことかな」
『さあな』

ふうん、とレイラは答えた。寒い地方。何処だろう。

『此処のように光が届く場所ではない…と思う』
「…じゃあやっぱり、アークじゃないのかな」
『どうだろうな』

レイラは深呼吸をしながら、にこりと笑って、彼の顔を覗き込んだ。

「捜すね」

また首を捻ってこちらを向いた、穏やかな焔色の瞳に、そう言った。

「私、あなたを捜す」
『…そうか』

ただ一言、穏やかに返ってきたその言葉に頷いて、瞳を閉じると、ゆっくりゆっくり身が沈む感覚におそわれる。
きっと、ラチェットの薬が効いたのだと思った。






朝日が差して、部屋のカーテンが視界に入ってきた。
レイラはむくりと起き上がり、ブランケットをめくると、携帯電話をテーブルから引き寄せた。
電話帳が流れていく。
JAZZ、と表示された番号で流れをとめた。
オライオンを捜そう。
きっとどこかにいる。
そう信じたあと、彼に直で会えるかもしれないという思いから、メールを作っている指先は緊張と興奮で随分冷え切ってしまった。
悴んだ指をすり合わせ温めながら、まだ見ぬ想い人に思いを馳せれば、レイラは綻ぶ口元を抑えることが出来なかった。