SHORT | ナノ



「ただひとつの愛を込めて」
SHORTSTORY

 愛の定義は人それぞれだ。
「愛」の言葉が喉の奥に今も突き刺さったまま抜けずに離れてくれないのだ。この胸を占める思いは呪いのように焼き付いて離れず、そして、今も苦しみ続けている。
 この身体は重症の病に蝕まれているだろう。時間薬という薬は今も見つけられずにいる。自分にとって、愛の形に正解はない。人生100年時代という昨今ではそう言われている。
 確かに、長い人生の中でこの感情は一瞬で過ぎ去るものなのかもしれない。だけど、この苦しみを抱いたまま、この先生きていけるのだろうか。
 人生百年の中で、まだ数十年しか生きていない身で失恋するとは。生まれて初めて味わう人生の挫折のように思えた。もう自分はこの先この痛みを抱いたまま、きっと誰も愛さないのだろう。
 この情を抱いたまま、胸に秘めて。だけど抱いた決意は脆く、心を占めて離さない唯一無二の存在の前ではその決意さえもたちどころに揺らぐ程、繊細で扱いに困る。
 彼の望む対極の「愛」がいつか、やがて成就することを願うのならば自分は潔く身を引くべきだ。
「どうしてカバディをやってる?」
「愛しているからです」

 彼は違った。そこには最強の王者の後ろ姿があった。彼は果て無く続くこの道の先で仲間と果たしたい夢を追い求めていた。
 まるで、その「愛」を成就させる、その為ならば命さえも、自らのその肉体をすり減らすことに対して躊躇いなど感じさせない……精悍な目つきで。
 彼は、澄んだ声で愛する存在に向ける感情を吐露し、世界を共に戦い抜いた同胞たちへと言い切った。臆することなく凛と前を向いて。
 「カバディは……僕にとって高嶺の花みたいなモノなんだ。誰よりも自分を磨かないと振り向いてくれない。僕と六弦の差は――……カバディへの愛の違いだ」
 そうして彼は愛する者と共にコートに君臨するのだ。理解していた、諦めていた。最初から、その瞳に映るモノ。それは、向けられた愛の行く先は決して。
 彼らにとっては人生に一度しかない、もう二度と来ない最後の夏。ようやく出そろった今のベストメンバー、コーチ。カバディ関東大会が迫る中、彼は全員を帰した後も猛練習に明け暮れ、更なる進化の為にその肉体を極限まで高め、そして酷使していた。
 まるで命すらもすり減らすように、愛の為に、その為の命なのだと。
 一人遅く戻って来た彼を迎えるのは無音の部屋の筈…が、部屋の明かりは煌々とついたままになっていた。消し忘れたのだろうか、そんな筈はない。朝から明りはつけていないのだから。
「また来てたね」
 与えられた寮室。鍵もかかっている筈なのに、いつの間に。彼はため息をひとつ。しかし、その表情は先ほどまで見せていた獣のようなどす黒いオーラは消えていた。
 散々練習に明け暮れ、その後、後輩達を追い出してまで、尚も。攻撃手の王者がその手を止めることは無い。何度も殺される華奢な肢体が地を這う無様な姿など絶対に知られないように。たまらなく、気絶しそうな程猛烈に疲れている筈なのに、閉ざされたドアを開け見えた姿に安堵を覚え一気に膝から崩れ落ちそうになる。
「海、ねぇ。起きて」
 自分の寮室を我が物顔で占拠する彼女の傍らで山積みの洗濯物が畳まれていた。テーブルの上には彼女が丹精込めて用意した栄養満点の回復メニューにアイシング用の氷の山。待ちくたびれて寝てしまったのだろう。身じろぎすると、身体に掛けられていたタオルケットがまくれ上がり海の剥き出しの太腿から足首までが露わになった。自分とは違う、何もかも。どこか生々しささえ感じられるその足に触れ、ゆさゆさと、優しく揺さぶれば。気持ちよいエアコンの風に包まれていた海の長い睫毛が揺れ、彼女は微睡の中からゆっくり目を覚ました。
「ん……おう、じょう……あっ……ごめん、なさい……!」
 ぼんやりした思考の中でようやく自分が寝落ちしていたことに気付いたらしい。ベッドの上で頭を下げる彼女に彼はにっこり微笑んだ。
「いいよ。海も毎日お疲れ様。夏休み中なのに練習まで付き合って僕らの身の回りのことまで…ありがとうね」
「もう…やだ、っ……! 寝ちゃってた……今度こそ起きて待ってようと思ったのに……」
「大丈夫、海がいつも起きてる方が珍しいし、でも、僕の部屋までどうやってきたの?」
「えっと、その……見つからないように……隠れながらこっそり来たの」
 ごめんなさい。と、さらりとそう言ってのけた彼女に思わず彼は疲労困憊にもかかわらず、力の抜けるような笑みを浮かべていた。そうだ、彼女はいつもそうだ。足元に落ちていたカツラを見て彼も悟るのだった。
「本当に……無茶ばかりするね……海は本当に…悪い子だ」
「だって、見つかっちゃいそうで……」
「僕のジャージで誤魔化して…そんな小柄な男子高校生なんて居ないよ」
「そうだけど……」
「キミは女の子なんだから」
 彼の眠るベッドから抜け出し、生足を晒した彼のジャージだけをワンピースのように着ていた海は慌てて彼にベッドに横になるようにと促すが、まだ汗を流していない、夜風でいくらかは乾いたが、さすがにこの量の汗を流したから、風呂で洗い流さなければ気持ちが悪い。
 海の言葉に彼はそっと微笑んだ。どうしてこんなにも彼女は…。そういえば、そうだった。2人の再会の時を思い出していた。
「僕は……海には一生かなわない気がするな」
「へ……? それは、カバディでってこと? とうとう私を認めてくれるのねっ!」
「ううん、それは…ないかな」
「えっ……!」
「海は女の子だし……僕より腕力も無いしな……折れちゃいそうだ」
 ふいに手首を掴んだ彼の真剣な眼差しに海は思わず思考を停止した。
 サラリ、と。艶を帯びた彼の纏う闇に染まりそうな漆黒の髪は今日は風になびくことなく、彼の素肌に汗で乾いた感触を残し張り付いた。もたれかかるように倒れ込んで来た彼から微かに香る汗の香り。コートに立つと楽しさのあまり唇を噛みながらキャントを続ける彼の唇からは微かに血が滲んでいる。
 悪癖だろうか、本人の性格なのか、彼はカバディに身も心も捧げている間は己の限界を超えても尚も走り続けてしまう。しかも、
「唇、切れてる……」
「ごめん。言われるけど、いつも夢中で気付かないんだよね……」
「痛くない?」
「うん、痛くないよ」
「足は……? 早くアイシングしないと……」
 未だ若い肉体は男特有の汗の香りがするはずなのに、いつも彼からはいい香りしかしない。不思議だ、落ち着く香り。不快感はない。目の前の顔に触れ、そっと確かめるように。人間は五感で相手を感じるのだろうか。その不明瞭な闇を孕んだ瞳には今は自分が映っている。人間も結局は動物で、本能で相手の匂いに惹かれて、そしてその体臭に不快感を感じなければ遺伝子的にも相性がいいと言うが。
 実際に確かめたことは無い。互いにその術さえ、持たない。
 彼は大事な大会を控えている、彼はこの大会で目指す夢、頂を望んでいる。彼は敢えてこの高校を選んだのだ。
 今はただ、見つめ合うだけ。こうして隙間なく抱き合う時間、たった一時の若さ故の熱情に浮かされている場合では無い。明日も早朝から激しい練習が待っているのだ……。
 コートの彼と今の彼、どちらが本当の彼なのだろう。まるでジキルとハイドのように白と黒の表裏一体の存在、自分の命すら省みない、愛を失うそれならばいっそ、この命さえも摘み取られても、失ってもいいと、そんな怒気迫るような気迫すら感じる。
 細身の彼に伸びる手はいつも彼を殺しにかかろうとしている。
 いつか、彼が殺される。惜しむことなく注いでいる愛にいつかその華奢な肢体は忽ち飲み込まれてしまうのではないかと、海は堪らなくそれが恐ろしいと不安を抱いた。
 彼の求める誠実な愛は、彼に愛をもたらすのだろうか。

 攻撃手レイダーがコートで捕まること。特に細身の彼にとってそれは敗北と言う名の死を意味する。彼という主砲がもし折れた時、その動揺や不安は彼の大切な後輩にも伝わる。
「死んだら困る。日本一になるんでしょう? 途中で死ぬなんて……許さないから……」
「海…」
「怖いの……私みたいに、あなたの身体が、いつかこの競技に殺されるんじゃないかと……不安なの」

 攻撃手レイダーとしての生命線をかつて断たれた呪いに今も苦しむ海の言葉には並々ならぬ重みを感じた。
 世界組や宵越のように恵まれた体躯ではない

攻撃手レイダーの彼の背は骨ばってあまりにも薄くて頼りない。細身の体躯で自分よりも何倍もの上背のある筋骨隆々の男たちに囲まれて。コートに無様に倒れ伏す絶対の王者である彼の陥落する姿など見たくない。
 不安げな海を宥めるように、彼は微笑みを浮かべそっと自分よりも小さくて折れそうな腕を掴み、そして頭を撫でた。
「僕は皆みたいに筋力も無いし、この身体を破壊出来る人の多いことは理解している、」
「私が男に生まれれば良かった……そうすれば……あなたを守る盾になれたのに」
 女の身である自分では彼らと対等に戦うことは出来ない。せいぜい身の回りの補助や練習相手になるくらいだ。それだけの自分があの神聖な場所にいてもいいのだろうか。だからこそ試合中は自分は姿を見せない場所で静かに見ている、自分が出来ることなど何もない。
「僕は……、海が女の子でよかったと思ってる。僕以上に脆いのは海だよ」
「私?」
「そう、海が僕よりも力があったらさすがに…それは…嫌かな、」
「どうして?」
 肝心な言葉を彼がくれることは無い。彼は、カバディへの愛を誓っている、今の彼に必要なのは癒しではない。だけど、彼は言わなくても分かるでしょと言わんばかりに不意に海の華奢な手首を包んでそっと立ち上がったその瞬間だった。
「ほら――……」
 力のない彼が、見出した策。自分より何倍も上背のある人間を倒す為に。磨き上げ取得したカウンターは身軽な海を一回転させるようにベッドに押し倒した。
「ね?」
「っ……」
 とっさの出来事に呆然とする海の上に伸しかかり、二人分の体重を受け、寮の簡素なベッドのスプリングが衝撃を吸収し、軋んだ。
「確かに僕は筋力もないし、貧弱に見えるかもしれない。けど、コートの中で僕の前に力は関係ない。それに、海、キミはまるで理解していない。僕はれっきとした男だし、小さな海、一人くらいなら……いつでもどうにでも出来ると… ちゃんと覚えておけよ?
「…っ、」
 間近に迫る彼の美麗な顔に微かにコートで見せた非情なまでに獲物を捕らえる顔つきに豹変したように見えて。そんな彼に思わず魅入ってしまうのは惚れた弱み故なのか。分からない。明るい場所で照らされた顔は試合中のコートの中で君臨する王者、だけど、コートから離れた、今は、その瞳は自分だけを映している。
 手を伸ばせば届きそうな距離にいる彼に、そっと触れて。
 海が気付いた時には求めなくとも自然に互いの温もりは重なっていた。言葉にしない、しなくても分かる。お互いの気持ち、温度。だけどその温度が交わることは無い。
 こんな時に恋愛などという夏の暑さと熱に浮かされて、一時の感情に支配されるものはない。自分から離れたのに、向かう足はどうしても彼の部屋へ行ってしまう。
「王城。私、練習相手になろうか……?」
「海が?」
「なっ、何笑ってるの……!」
「駄目だよ。その身体で練習に加わるのは……僕が居ない間、無茶して参加したんだってね……いい、本当にもうしなくていいから。僕は大丈夫。そう簡単に、この足は壊れたりしない……」
 もし、この足がいつか動かなくなるとしても、それでも愛し続けていたい。この瞬間を、今しかない。もう少しだけこのメンバーで、この瞬間をもう少し、二度とないこの夏を閉じ込めて。



「海……。キミを散々待たせてることは知ってる……甘えてばかりでゴメン、だけど……」
 終わらない人生の中で二度と来ないこの夏をまだ、続けたい。ようやく見えた頂の先で。安堵と疲れから再び眠りに落ちてしまった海の剥き出しのしなやかな足を見ない為に、再度タオルケットを掛けて。くしゃりと長い髪を撫でると、普段前髪で隠されているむき出しの額にそっと、唇を寄せる。今はこれでいい。
「王」の名を持つ彼はそっと微笑むと、浴室へ姿を消した。先程まで見せていた獣のような目つきやどす黒いオーラは無い。彼女の存在が今の自分には赦しに思えた。
「海にはとてもじゃないけれど、こんな顔、見せられない」

Fin.
2020.07.03
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