SHORT | ナノ



「.(PERIOD)」
SHORTSTORY

 それは遥か昔の話。いつかは大人になる。その前に。抱いたままこの記憶をどこかに閉じ込めて鍵をかけて。そうすれば私だけしか知らない記憶になる。
 微かな記憶、今も尚も差し伸べられる手の感覚。 きっと、愚かな選択をした私にとって、彼はあまりにも眩しすぎたから…。純粋に、ただそう思う。当時の私は…あまりにも無力で非力で、流されるがままに無防備に歳を重ねただけで心は何らあの頃と変わっていない事に。
 今、大人になってから思えば恋愛感情と言うものすらわからないままだった。愛を与えてくれた身近な肉親という存在を早くに亡くしたから、尚更そうだった。
 愛を無くした私に寄り添ってくれたのは同じように肉親を失った痛みを知る彼だったからこそ。
「でも、海は泣かずに最後までよく我慢したね、偉いよ、よく頑張ったね」
「ちょっと、何よ、触らないでよ………私、もう子供じゃないんだから………っ!」
「あぁ、ごめんごめん。子供扱いしてるわけじゃ無いんだけど、何だか放っておけなくて…」
「私はいいの………っ! おせっかいさんはね。自分の身体の事でも考えてなさい……!頑張りすぎて足痛めて入院なんて…許さないんだから…本当に…どれだけ心配したか……!」
「ごめん、海」
「ごめんじゃない、皆にも心配かけてっ」
「でも、僕の代わりに心配してみんなの練習相手になってくれたんでしょ?」
「そうだよ、もう……無茶ばかりして…私が男だったら良かったのに……そしたら…試合に出られたのに…」
「ううん。海が男だなんて……それは……僕が嫌……かな」
「どうして?」
「海が好きだからだよ」
 私は好き。でも、彼が愛してるのは私じゃない。彼はあの日から身も心も全てカバディに捧げている。
だけど、そんなカバディを愛している彼から愛を奪うことは何人たりとも出来ないの。
「私も…あなたが好きよ…大好きだよ…」
 俯きながらそう告げると、目の前の彼はにっこりと、いつまでも無邪気な子供のような笑顔で微笑んだ。黒目が大きくて、女の私よりも色白で華奢で、その瞳は星空を秘めたようにいつも夢を抱いて輝いていた。夢も希望も無い私には夜闇の中で一番好きな漆黒のように。彼はいつもと変わらない、穏やかな笑みを浮かべていた。
 コートに立つ彼は普段とは見た事もない恐ろしい顔つきで次々と自分より何倍もある相手へ攻撃を繰り出す。今にも折れてしまいそうなその身体で、その姿は飢えた獣のようだった。見せた事のない顔をした彼は私を一切見ることなくただそこで猛烈なオーラを醸し出していた。
 彼は優しい。自らに抱えるその弱さを決して私には見せてはくれなかった。ベッドに強制的にしばりつけられて、本当は誰よりもあの美しい戦場となる舞台を渇望していたのに。
 どんなに満たされない不安や寂しさも全て優しい穏やかな眼差しでくるんで、その温もりが埋めてくれる。他人にはまるで興味のない何の為に生きているのかも見いだせなかった私の世界で、たった一人の人間(あなた)に執着したのは初めての体験だった。
 気付けば傷を抱えた存在同士、荒んだ日々を送っていた私の心をとらえ、癒した。
「帰らないで…お願い、私の傍に、居て欲しい…」
 離れている間は決して寂しくはなかった。焦がれた夜を何度も繰り返して、そうして、再び会えた頃、彼は前よりも強く凛々しくなっていた。
 普段は見せない、穏やかで純粋にその世界へ身一つで飛び込む姿に目を奪われていた。
 コートに立つ獣のような顔つきも、凛とした意思の強い瞳は変わらずにこちらを見つめていて、そうして確かな愛や幸せ。この身を持って知ることになる。
 あなたと出会い、そうして巡り、出会えた奇跡を抱き締めよう。
 二度と忘れぬ記憶として刻み込み生き抜かなければならない。
 人の幸せは、もたらされるものではない、不変なものなど無い、今振り返ればあの日々は今にも砕け散りそうな薄氷の上に立たされていたようなものだと。儚いものだと何故幸せだと気づかないのか、何故、どうして私は無くしてからいつも気付くのだろう。
 また独りになった。私は逃げたのだ。荷物を纏めて、彼から、私の本心からも。
 彼の優しさが怖かった、その優しさに甘えて縋り付いて、このままではどんどん私は彼なしに生きてはいけなくて、ダメになりそうだった。
 堕落しきって、彼に甘えて……。
 このままじゃ彼にいつか私は捨てられてしまう、あの優しい声が、彼の温もりに包まれながら、いつか彼に捨てられたら、そんなこと、考えたくも無かった。
 今はもう彼の姿を肉眼で負うことは出来無い。
 これからもあなたを思い続けるだろう。永遠にこの思いは変わらないだろう。
 だから、幸せを見つけたら手放さないで欲しい。何があっても、どうか。忘れないでほしい。終わりから始まりの時は未だ眠り続けている。この鼓動が来るべき時をまた知らせるだろう。
 もうこれ以上、失う事が怖くて、ただ無我夢中で重ね合った肌に、今も愛したあの夏に縛られたまま。
 愛の意味も定義も、既に捨てて私は今も生きている。息をしている。
「あなたが好き。あなたを、私はとっても尊敬している……だからこそ……いつか私の存在が重荷になって、いつかあなたを失ってしまう事が……怖い……」
 私のその言葉に彼は悲しげに「違う」首を横に振った。憧れは永遠に憧れのままで、居られたら、よかった。 こんな気持ち。私の抱いたこの感情は幻想のままで居られれば良かった。そうすれば、きっと彼をこんなに傷つける事はなかった。

2020.07.01
Fin.
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