SHORT | ナノ



「EVOKE」
SHORTSTORY

貴方のいない日々をただ思う。
若さだけが輝いていたあの頃のきらめきは永遠に心に閉じ込めて鍵をかけよう。
思い出は繊細なガラス細工のように儚げだから、誰にも知られないように外気に晒されてしまわないように大切に。

外は生憎の雨。けれど、春の温かな雨は嫌いじゃない。花粉も飛ばないし、こんな静かな夜はのんびりと本を読みながら紅茶を飲むのが好き。
仕事終わりの夕方、誰にも縛られない自由な時間に夢うつつ、私は幸せな気持ちに浸っていた。

人混みで行き交う街路樹の街並みを忙しなく行き交う人々。傘で視界もよく見えないのにぼんやり歩いていたその時、角から黒い影が飛び出した拍子に私の傘が雨空に舞い上がった。

「きゃっ!」
「うお!」

歩いていたら急ぎ足でこちらに向かってきた人に、思い切りぶつかってしまった。

「あっ、きゃぁ…すみません!!」
「いや、大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい…。あっ!」

ぶつかったのは、上背のあるスーツを着たお兄さん。
お兄さんが持っていたあつあつのコーヒーが宙を舞って派手に落ち、私の傘も道路の方へ飛んでいってしまった。
どうしよう…せっかく買ったばかりで、お気に入りの傘だったのに。また買い直さなきゃ…。
お兄さんは悪くない。悪いのは私なのに。それでもお気に入りの傘に逃げられて私はどうしても沈む気持ちを押さえられなかった。

「悪い。前しか見ていなかった。」
「いいんです。気にしないでください、私もコーヒー…すみません。」

やっぱり私はどれだけ大人になっても慌てん坊でそそっかしい性格は変わらないのかな。

お兄さんはアツアツのコーヒーに手を伸ばしてまだソーサーに残っているコーヒーを飲み干すと私に頭を下げた。
コーヒーを持つ綺麗な指先、浮き出た筋までゴツゴツしてて男らしい。
背が高いのと暗いこともあり彼の表情はよく伺えないけれど、背が高くて日本人離れしたその姿に思わず魅入ってしまう。

「ごめんなさい」
「熱いから触ンねぇ方がいいぞ」

一緒になってコーヒーを拾おうとすると、お兄さんに制され、立ち上がるとようやく明かりが点りはじめた街中で照らされたお兄さんの顔を視界に写すことができた。黒いけれど、やや赤混じりの髪。でもきれいにワックスでセットされ、まるでホストみたいだ。
もしかして今から出勤なのかもしれない。

「怪我はねぇか?」
「あ、はい…」

私の働いている病院は普段の女性の患者さんが多いし、異性と話すことなんて本当に無いから、緊張してしまってうまく話せないよ……すごく低いちょっと怖い…そんな声が心地良いなんて。
でも、何処か懐かしい声。
冷たくて、乱暴で、だけと…

傘もささずに濡れてた髪を揺らし、その人は心配そうに私の瞳を見つめる。

「貴方は…」

紫紺の深い瞳…まるでその深い海に瞬く間に吸い込まれてしまいそうで…
その容姿はあまりにも美麗で、女性にも見えそうな顔つきだけど、手は男らしい。

「…お前…」
「………あ、の…?」

やがて、その男の人は私を見るなり驚いたような顔をした。
そうして、私も初めてではないこの声の主に、確かに懐かしさを感じた。

…分かる。
この人が歩けば道行く女性の視線がすべて彼に注がれているけれど、彼から醸し出された気高い野獣のような雰囲気が女性の視線を跳ね返すようで。

「いや、何でもない。気にするな。
ぶつかって悪かったな、」

じっと見つめたら…その人の頬が僅かに赤く染まっている。
逃げるように革靴を鳴らし彼はまた早足で雑踏に紛れて私から姿を消した。

「……あの人何処かで…?」

ずっと一緒にいたような気がする声だった。
低くて落ち着く力強い声だった。

だけど、それ以上は思い出せなくて。
私もそのまま背中を向けて歩き出す。
…だから気が付かなかった。
歩き出した私の後ろではその本人が懐かしそうに滅多に見せない笑顔で、笑っていたのを。

「…海、相変わらずドジだな。けれど、イイ女になったじゃねぇか?」

やっと出会えた。誰よりも、探し求めた存在に。
彼は懐かしそうにクックッと笑い、すっかり成長した彼女に生まれ変わった自分の幸せを噛みしめた。

報われなかった恋は来世に巡り巡って、
2度目はもう離さない、

そして、クライスはまた歩き出した、今度はただ、幸せを願う男にはなりたくない。
本当はいつだってそうだったのだ。
誰よりも近くにいた、あのときもこのときも。海の近くで本当はいつもそう感じていた。

欲しい物は自ら掴みに行く、今度こそ始められるから。

「海、」

愛しげに低く口にした名前は海の耳に届いたのか。振り向いた海も、恥ずかしそうに人だかりの中心でくりくりした愛くるしいちょっと生意気なその瞳でクライスを見つめていた。

華奢な手首を掴んで抱き寄せて…、2人は言葉無く抱き合った。

ーーーーーーーーーーー


「―…イス、……クライス…!」
「あ?」

ちなみに椅子ではない。
ふと、睫毛を瞬かせ目を覚ますとそこには心配そうに自分を見つめている海の姿があった。
さっきまで乱雑していたファイルや資料はきちんと重ねられてガラステーブルに置いてある。

どうやら持ち帰った仕事をこなしていたはいいが疲れがたたっていつの間にかソファで眠りこけていたらしい。

心配そうに自分を起こす海の小さな手にはお揃いの指輪が輝いていた。

「もう、こんなところで寝ないでって言ってるのに…」
「あぁ…」
「もうっクライスったら!私の話聞いてるの!?」
「ハイハイハイ〜わっかりました〜」
「もう!バカにしないで!」

海はすっかりご立腹だ。自分では綺麗にしているつもりなのだが言うことを守らないまま後で怒らせると怖いのは理解していて。

「ちゃんとご飯食べてたの?
部屋も散らかしたままで、ハエがわいても知らないんだからね。」

腰に手を当てて怒っているのだが怒ってる海も可愛い、と。仕方なく重い身体を引きずりながら起きあがり片付いた部屋に満足そうに腕を組んだ。

「いつもありがとな、」
「ひゃ!」

あんなに散らかっていた部屋を片づけてくれた海に感謝の気持ちを込めてそっと肩を抱き寄せ柔らかな髪をかき分ける、露わになった白い肌に血管は透けていて。

うなじに口付ける。

「や、もう…今はそんな気分じゃないの!」
「海、いいだろ?このまま・・・」
「いい加減にしなさい!金玉蹴るわよっ!」
「なっ!?」

壁に押し込めてみた。勢いですれば流れに乗れると思ったが甘かった。
腹部からそっと胸を触ろうとすると海は頑なにクライスを拒みその衝撃的な言葉に飛び上がったクライスはこいつなら再起不能にさせかねない!
しぶしぶと股間をガードしながら海から離れた。

恥ずかしそうに俯いた彼女の柔らかな髪が心地よく揺れる。
あの夢の後だからか、クライスは酷くもっとそれ以上に海に触れたくてたまらなくて。

こんなに触れる距離にいるのに、それは恥ずかしいのは分かるが男の性も分かって欲しい。
思春期なんかとっくに過ぎたはずなのに、今まで気まぐれに付き合ってきた女とは長くは続かなかったし顔も覚えてなくて。

そうして巡り会えた小さな少女、街角で見つけたあの瞬間がすべての始まりだった。

2人はお互いのアドレスを交換した。
それから時々ふつうの恋人の様にデートを重ねたまにはお互いの家に泊まったりもして。
気付いたらお互いの存在無しにはいられなくなっていたのだ。

海のどんな姿にも簡単に自分は落ちる。

気付いたら海を見つめていた、きっと愛していたのだろう。

「ほらほら、準備したんだから早く!」
「はいはい、海チャン」
「もぅ、馬鹿にしないでっ!ちゃんと座りなさい、」

幾年も歳が離れているのにすっかり姉さん女房の海に甘えきりの生活、合い鍵を渡してあるから海がこうして仕事にいる間に身の回りのことを忘れて自分の部屋や食事を作っては冷凍してくれているのだ。

「美味そうだな、」
「当たり前でしょう、今日はクライスの誕生日だから盛大に準備したの。はい、食べて食べて。気持ちよさそうに寝てたから起こさなくてよかった。」
「そうか、ありがとな、海。最高の誕生日だ、」

無意識に小さな頭を撫でていた、海は普段こそしっかりしてて大人びているが急に子供みたいに顔を赤くしたり飽きさせないのだ。

庇護欲を煽って、いとおしいと思い優しい気持ちになる。
背が小さいことを気にしている為に頭を触られるのを極端に嫌がる海だったが最近は真っ赤な顔で大人しくなるだけだ。

自分に心を開いてくれたのだろうか。

「美味いよ、すっげぇうめぇよ」
「…クライス、」

一心不乱に彼女の食事にありついた、どれもこれも美味しいと笑ってくれるクライス。
海も嬉しそうに彼の食べる姿を見つめていた。
唇に付着した食べかすを指先で拭い大きな子供の様に笑う。

「あのね、プレゼントがあるの。」
「…ん?あぁ、」

ひな祭りに生まれたことは恥ずかしいことではあったがこうして祝ってくれる海が居る。
今度は一番近くに海が居る。
求め続けるのだろう、これからも海だけを。はにかんだ様な笑顔もクセのあるあどけない声も嬌声さえも。

そして、

「最近、あの…あれ、遅れてたでしょう…?
今日、病院にいってきたら…」

その言葉にクライスは切れ長の瞳を見開き口を開けた。
クライスは自分の視界に刻み込もうとした海の姿が滲んで見えなかった事に気付いて目を擦った。

「海…」
「私、ずっと、もっと、ちゃんとクライスのこと好きだよ…頼りないかもしれないけれど…クライス?」

あの恥ずかしがり屋で愛情表現が世辞にも上手くない海からの予想だにしなかった逆プロポーズにクライスは驚く以上に膨れ上がる愛しさを制御できなくなり何も言わずに海の柔らかな肢体を抱き締めた。

「お前なぁ…こう言うときこそ俺からプロポーズするモンだろうが、」
「でも、私…だって、なにひとつクライスにしてやれたことなんか今まで無かったもん、ジャムの瓶もクモが出たときもクライスが助けてくれた…守ってくれた。」
「いいんだよ、お前はお前だ、恥ずかしがり屋で泣き虫の…可愛い海だ。」
「…っ!」
「職場でいつもニコニコしてて、優しくてそんな海だから俺はお前と一緒に居てぇと思う」

身体に纏いつく緩やかな髪に顔を埋めた、いい匂いのする柔らかな髪に涙をかき消してみたが涙は消えなくて、また止めどなく溢れた。

自分に自信などあるはずがない、小さな海1人くらい守れる気で居た、結婚となると2人の問題だけではなくなる、彼女を大切にして結婚もと後回しにしていた様に感じられていたのかもしれない。
二人とも、孤独に生きてきた。
結婚に人一倍憧れていたから、待ちきれなくて仕方なかったらしい。
恥ずかしいと顔を赤らめながらお腹を撫でる海への愛しさと、言葉にならないありふれた感謝の気持ち。

柔らかく頭を撫でながら海を両足の間に座らせた。

「クライス!」
「だから、俺から言わせてくれ。愛してる、誕生日は…お前を俺の、奥さんにしたい。産んでくれ、俺たちの子供を。」

低い声で素直にそう囁いた。
互いに近づく顔、見つめ合う目と目。

「いいか?」
「いいも何も、私が決めたの!」

海は少し恥ずかしそうに俯いたままだったがクライスの目線が訴えていたメッセージを読みとり2人は甘く口づけを交わして強く抱き合った。

どさくさに小さな身体をこれ見よがしに触りまくるクライスだったが今日くらいは許してあげよう。
眩いクライスの満点笑顔は彼女にしか見せない貴重なものだ。

翌朝、きっといつもより遅く起きた2人は手を繋いで婚姻届を出しに行くつもり。

傍にいたい、
これからはうんと誰よりも近くにいたい。
彼女を、つなぎ止めたのは。

一度出会えたら偶然、
そして二度目に巡り会えたら、

それは永遠の愛となる。


FIn.
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