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「…あのアホ」
同じ布団に入っていたはずの体温がとっくに感じられなくなって数刻後。そろそろいいかと冷たくなった布団から這い出れば冬独特の朝の冷たさが部屋を支配していた。
「ああ、やっと起きたんですか?」
「…」
「晴くんはまだ寝てるんですか?」
昨日と同じく屋敷の奥の座敷には変わらないメンバーが揃っていた。背筋を綺麗に伸ばしてどこぞのマネキンのように端座し事の次第を何も知らずに訊く片田に視線だけを寄越してから、自分の席に場所に座りテーブルの上に置いてある籠に入っている蜜柑に手を伸ばす。
「出てった」
「はあ?早朝から仕事ですか?」
「…違ぇし」
「じゃあなんです?出てったって、」
「そのままだ」
みかんによくある白い筋、所謂アルベドとやらを取り除きながら答えれば隣で固まる気配がする。どうやらやっと通じたらしい。
「…まさか、戻ったんですか?」
「だろうな」
「気付いてて、止めなかったんですね?」
「あいつの問題だろ」
「馬鹿ですかあなた!!このままじゃ晴くん下手したら死にますよ!?」
立ち上がって怒鳴る片田を横目にみかんを口に放る。そんなことはとっくに分かっているがこいつは俺が親父とした約束を忘れたのだろうか。
「なんだ、騒がしい」
スッと麩が開きそこから姿を現したクソ親父を睨みつければ親父は目が合うとただ意味ありげに笑った。
「なんだ、大事な嫁に逃げられたか?」
「それを手伝ったのはどこの誰だっつーの」
「なんだ?気付いてたなら止めればよかったものを」
はっと馬鹿にしたように笑いながら上座に座る男をなお睨む。途中でみかんを食べるのはやめないから呑気だと思われるのは仕方ないのかもしれない。
「で、アレはなんて?」
「何も」
「…何も言わなかったのか」
流石に一言くらい何かを残すと思っていたのか少しだけ驚きの混ざる声音にただ無言で首肯する。それと同時に交渉内容を知っているメンバーからなんとも言えないオーラが溢れ出した。
あの子は最後まで何も言わなかった。助けても、ごめんも、さよならも。それでも軽く触れた唇が何よりも雄弁に晴の気持ちを表していたから。必死に泣くのを堪えようとする子供を抱き締めたくなりながらも、それをしてしまえば晴の決心は揺らいでしまうだろうから結局何もできずにただ寝たふりを決め込んで見送って。
「…交渉決裂だなァ?」
「まだだ」
「何がまだだ。交渉内容はアレがお前に助けを求めたら、だっただろうが」
そう、晴が出ていくまでに一言でも助けてと、そういう類の言葉を発していれば助けに行っていいと。それが晴を手放すか手に入れるかの正当な契約。
けれどあの子は何も言わなくて。それは、この契約に俺が負けたことを示していて。
「ちょっと待てよ、それは助けらんねえってことかよ!」
ガタンと勢いよく立ち上がったのはガニアンだ。珍しくサングラスもせずに真っ赤に染まった瞳に怒りを滲ませてそれを爆発させる。
「いい加減にしろよ、どいつもこいつも…!あいつはお前らの人形じゃねえんだよ、なんでいつもあいつばっかこんな目に合わせなきゃなんねえんだ!!てめえも彼氏ならそれらしく行動しろよこの木偶の坊!」
必死な顔で睨みつけてくるこの男は晴が言うにはコイツは自慢の兄だとかなんとか。ああ、でも分かることがある。ここの連中は馬鹿だ。
「誰が木偶の坊だ殺すぞ。そもそも、あいつが何も言わねえわけねえだろ」
あの晴だぞ?出合ったその日に喧嘩売って来たクソガキで、子供のくせに大人ぶって情報屋なんてやって生きてきた晴だぞ?
「あの甘えたがりが、助けを求めねえわけねえんだよ」
「でも、何も言わなかったって」
「面と向かってあいつが言うかよ、滅多に言葉にしねえのに」
甘える時は行動で、もしくはお酒の力を借りるようなアホだ。素直じゃないあの子供が今回どんな手を使ったのかなんて知らないが、あの子は必ずなにかしているだろう。計画性だけは無駄に高いやつだから。
「…じゃあ何で助けを?」
「さあな」
「さあなって…お前!「お話中すみません」」
叫ぼうとした秋人を遮ったのは麩から頭を下げて入ってきた男だ。
「何だ?珍しいなお前が用なくここ来るなんて」
「用があるから来たんですよ…」
どこか疲れたように肩を竦めて見せるをつく男は確か昨日居なくなった晴をここまで連れてきた清宮である。
「あいつ、晴さん消えたんですってね。明日伝言よろしくとか言うから自分で言えよとか思ったんですけど。タイムリミットって言葉の意味もようやく分かりましたよ」
「……」
「夏樹さんに伝言ですってよ。なんだっけ、アイリスとチグリジア?」
その言葉を聞いた途端、この部屋にいる誰もが夏樹の口元に浮かんだ凶悪な笑みに息を呑んだ。それほどまでにゾッとするような、それでいてどこか慈愛に満ちた笑み。
「交渉成立だなあ?クソ親父。俺はあいつのところに行く」
それだけ告げるとさっさと清宮の脇をすり抜ける夏樹の後に続き片田も一度礼をすると出て行ってしまう。更に白髪の情報屋ガニアンと紫櫻組まで出て行ったその一連の出来事に、清宮はきょとんとした間抜けな顔でその場に立ち尽くした。
「…いや、意味わかんねえっすけど」
「なんだ、お前花言葉知らねえのか」
「花言葉?」
そういえばそんなものを聞いたことがある。が、ぶっちゃけ大人の男、しかも極道がそんなことを知っているのは珍しい気がした。
「で、組長はその花言葉ご存知なんです?」
「あの年にしたら随分と熱烈な告白だな。アイリスは『あなたに全てを賭ける』。チグリジアは『私を愛して』と『私を助けて』だ。アイツは花言葉を通じて助けを求めたわけだ、夏樹が花言葉を知ってるのを前提で、な」
「…知らないって可能性は」
「考えなかったんだろうな。例え夏樹が分からなくても恐らくあそこの優秀な頭脳はちゃんと理解出来る」
…なるほど。それを踏まえた上で全てを賭けて助けを求めたわけか。どこまでも斜め上を行く情報屋に何を思ったのか、座る組長はどこかホッとしたように笑った。
「…本当にそっくりだな」
「何がです?」
「さあな」
答える気は無いというその回答に頷きながら組員が集まっているのか騒がしくなった廊下の先を見やり、これから始まるであろう戦に忙しくなるんだろうなあと他人事のように思いながら、そっとため息をついた。