イカスミ


「インクがないですって!」

奥の席から聞こえてきた驚愕の声に私は書類から顔を上げた。

「申し訳ありません、発注ミスをしてしまいまして」

涙でぐちゃぐちゃの文官、彼を支えながら直角に頭を下げる文官、そして、真っ白く燃え尽きたような我が上司。



「緊急事態ですよ、これは」

謝り続ける文官を、これでは話にならないと一旦帰し、集められたのは『皆さん、聞こえましたよね』と、部屋で作業中の財務官だった。

国土が狭いシンドリアでは資源が少ないため、多くの生活必需品を輸入に頼っている。インクもその一つで、今回、調達を任されている文官が発注ミスをしたらしい。

先月どの担当も修羅場だったからなぁ。が、そんなことがあってもインクがないと困る。

定期的にインクを購入している商船がシンドリアを訪れるまであと1ヶ月。どう考えたって足りない。

「今あるインクは正式な書類にのみ使用して、その他のものは代用品を使いましょう」
「代用品って?」
「考えるんですよ、今から!思いつかなかったら、白羊塔の終わりです!」

ジャーファル様の瞳孔が先程から開いていて、修羅場時の顔になっている。

『白羊塔の終わり』なんて、大げさに聞こえるが笑えない。現代ほどではないがしっかりと書類社会であるこのシンドリア。インクがなければ書類が書けない。書類が書けなかったら、仕事が進まない。政務そのものが滞ってしまう。

インクの調達ミスだけで、シンドリア滅亡の危機に立たされている。

「おい、ちびすけ、お前の無駄知識に何かないのか」
「そうです、何かないですか、シノ」
「無駄知識って」

私の前世の知識を無駄とは。まぁ、あまり使えることはないのだが、うんうん唸って考えてみる。ようは文字が書ければいいんでしょう。この際、色にはこだわらないとすると。

「染色の何か使いますか」

前世の無駄知識が、欠片も活きていない。本当に無駄だ。誰かうまい活用法を教えてくれないものだろうか。

「植物の葉とかどうでしょう?」

誰でも思いつくような私の提案にジャーファル様は首を横にふった。

「既存の産業に影響を与えないものでお願いします」

そんなむちゃな。それ、一からインクを開発しろってことですか。

上司の無茶ぶりに先輩がこれならどうだと口を開く。

「染色って動物の体液も使ったりしますよね?影響が出なさそうな動物を…」

白羊塔の1ヶ月のインクになる量を確保するとなると乱獲になってしまう。

「さすがにまずくないですか、絶滅しちゃいますよ」

ダメダメと今度は私が首を振るも、ジャーファル様同様座った目をしている先輩は、『背に腹は変えられないよ』と返してくる。

「いやいや、まずいですから。絶滅したらもう戻らないんですよ。生態系のピンチです」

私が反論するも、先輩はどうにも納得がいってなさそうな顔だ。『少しオラミーに手伝ってもらうだけだよ』とか言っている。よりによってオラミー。たしかに町中にたくさんいるけどさ。

この世界の人に種の保存とかどう伝えればいいんだ。前世の日本で、『ダメだ』と言われ、私自身そう思っていたが、こちらの世界の人を納得させるだけの知識がない。

このままだと、オラミー大ピンチと思っていると思わぬところから加勢された。

「そうですね、さすがに絶滅はまずいです。以前某所からそれだけはするなと止められました。それにオラミーをインクにしたら市民から暴動が起こりますよ」

某所ってどこだろう。この世界にも種の保存を考えられる先進的な人がいたんだとほっとする。

「絶滅しない、いいものないですかねー」

そんな私の台詞に言葉を返してくれたのは、斜め前の先輩の、

「人間?」

という小さな呟きだった。小さいがその声は部屋によく響いた。

「血文字とかいやですよ!ダイイングメッセージじゃないですか」
「あながち間違ってないな」
「ヴィゴさん!真実だからって、そんなこと言わないで」

先輩の意見を即座に皆で却下している中一人静かな人がいた。あまりの静かさに今彼が何を考えているかなんて、容易に想像ができた。

「ちょっと、ジャーファル様本気で悩んでいるじゃないですか、先輩の馬鹿!」
「採用されたら、お前の血からだな」
「二人とも目が怖いって!」

『僕が悪かったよ』と謝る先輩をヴィゴさんが狩人の目で見ていると、

「…代用品は欲しいですが、私達の体力が削られることは極力避けたいです。」

と、ジャーファル様が結論を出した。
そんなマジレスしないでください。極力ではなく全力で避けてください、お願いします。

血文字案を本気で考えた上司にひいていると、向こうの方で『あっ』と声が上がった。

「そういや私の故郷でイカスミをインク代わりに使っていましたよ!」
「それだ!」

机を叩いてジャーファルさんが立ち上がった。机の書類が雪崩を起こしているが、目に入っていないみたいだ。

「最近、アバレヤリイカがシンドリア近海で暴れているとの情報も入っています。討伐ついでにイカスミを取ってきてもらいましょう」

目がぎらぎらしていて非常に恐い。このままだと南海生物すら乱獲しそうだ。

が、どうやって器用に墨袋だけゲットするんだろう?先日アバレウツボの首を引きちぎっていたマスルール様が思い出される。あんな戦い方したら、墨袋が破れるのでは。

私や一部の文官の視線を受け、ジャーファル様は綺麗に笑った。

「シャルルカンがいるでしょう」
「えっ?」
「何のための剣ですか」

少なくともシャルルカン様の剣は墨袋を綺麗にとるためじゃないのは分かる。が、黙っておこう。こうなった我らが上司は猪突猛進。普段の冷静さなんて海の藻屑である。早速赤蟹塔へ連絡をしているジャーファル様を見守ることにした。

まぁ、インクないと私も困るしね、


その後、真っ黒になったシャルルカン様がスミをゲットしてきてくれたようで。

「イカスミ、すっごく書きやすいじゃないですか!」
「本当ですね、普段のインクよりも書き心地が滑らかですし、色の濃さも十分です」

水に溶いただけのイカスミはインクとして充分な性能を備えていた。

「インクの国内生産ができますね」

にっこりしているジャーファル様を見て、シャルルカン様がアバレヤリイカ対応係という名のイカスミ調達係に決定したことが分かった。

八人将って大変だ。そんなことを思ったある日のこと。

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