飲み過ぎ注意
…何やってるんですか。
私は扉を開けて、『ついに頭が…』と零してしまった。
今月初めに王が事前連絡なしで難民を連れて帰ってきた。そのため、白羊塔の全担当が全力投球で受け入れをし、ようやく一段落した、そんな時だった。伝書鳩が今月二度目の王による難民受け入れの連絡をもたらしたのは。王が率いる難民を乗せた船はすでにシンドリア近海まで来ていた。
白羊塔に震撼が走った。
すでに使える予算は前回の受け入れで使い切っていた。受け入れのための衣服や食料その他備品はまだ補充できていない。もちろん住む場所もない。一時的に難民を保護する宿泊施設はまだ、前回受け入れた難民が使用中だ。ないものだらけだ。あるのは前回の難民受け入れの事後処理くらい。
前回と違い連絡はして頂けたものの、遅い。遅すぎる。たったの数日で難民の受け入れができるわけない。いや、むしろ早いのか。前回の受け入れから1ヶ月もたたないうちに再び難民受け入れなど出来ない。いや、『普通』できるわけない。
そして、その『普通』を越えなくてはいけないのが今ここにいる文官なわけで。
現在、全文官が鋭意限界を突破中だ。後に回せる業務は全て後に回し、必要最低限のものだけに前回同様再び全力投球。火事場の馬鹿力って本当にすごいと思う。
もちろん、体力的に限界を越えられない文官もいて。先ほど、私の正面に座っている先輩が倒れた。多分、この後も何人か倒れる人が出るだろう。それが分かっていてもどうしようもない。だって仕事は決して減らないのだから。
下っ端の私の机ですら書類が溢れ、床に積み上げられている。ジャーファル様や古参の先輩の机周りは悲惨だ。歩く時は雪崩が起きないよう静かに歩くのが鉄則だった。
そんな状況だったからこそ、資料室から帰り、部屋の扉を開けた時、その光景に絶句した。
今まで根が生えたように椅子から立たずに仕事をし続けていた財務官全員が立ち、その場で黙々と足踏みをしている。書簡を持ち上げて読んでいるもの、水を飲んでいるもの、腕を回しているもの、皆それぞれ何かしているが共通していること、それは立って足踏み。皆が一斉にするものだから、部屋が揺れ、奥の方の未決裁の書類が雪崩を起こしている。
「ついに頭が…」
あっ、声に出しちゃった。零れた私の言葉に、扉近くの先輩が振り返った。すごいスピードで足踏みをしている彼の眼は充血していた。
「足踏み!」
いきなりの先輩の大声に私の肩がはねた。
「シノちゃんも青春謳歌してないでしょ!恋人いないでしょ!まだ死ねないよね!なら足踏み!」
『はぁ?』と先輩の言葉に首をかしげていると、『ちびすけは資料探しで歩いているからいいと思うが』とヴィゴさんに言われた。もちろんそんな彼も足踏みをしている。
「いやいや、あの子、鐘がなったらするように言っていたから!習慣づけないと」
あの子って誰だ。
そんな疑問を、私から受け取った資料を確認しながらヴィゴさんが教えてくれた。先ほど、医務官の方がやってきて、『深部静脈血栓で死にたくなければ、今すぐ水を飲んで足踏みをしろ』と指導してくれたらしい。
症状を聞くに深部静脈血栓って現代で言うところのエコノミー症候群の気がする。飛行機や避難所等でなると聞いていたが、まさか職場にもその危険があるなんて。
それにしてもよくこの修羅場中の文官にいうことを聞かせたものだ。『あの子の説明、超リアルで俺泣くかと思った』と先輩が言っている。どんな説明をしたのか少し気になったが、今は修羅場を乗り切ることが先決だ。
騒ぐ先輩をおいておき、まずは借りてきた資料を配らなければと、頼まれていた人のところへ渡して回った。
すると、何故か資料を受け取る際に『よろしく』と肩をたたく先輩が数人。なんのことだろうと首をかしげると、疲れた笑顔が返ってくるだけだった。
疑問に思いながらも、ほとんどの資料を配り終え、最後に一番奥に立って足踏みをしているジャーファル様の机に向かった。
そして、私は『よろしく』の意味を理解した。
「ジャーファル様…」
「水も定期的に飲むように言われているので、君もあちらでしっかりとってくださいね」
指をさされた方向を振り返ると私が部屋を出るまでは書類の山に埋もれて、ろくに天板も見ることのできなかった台の上に、これでもかと言わんばかりの水差しが置かれていた。もちろんそれには気づいていた。部屋を出なくても水が飲めるようになったんだ、やったー、くらいにしか思っていなかった。
そして、台の上に置かれた水差しとまったく同じものがジャーファル様の机の上にも置かれていた。大人数で使う水差しのためジャーファル様の机の上には不釣り合いだった。
ジャーファル様は、足踏みをしつつその水差しから水を碗に注ぎ足し飲んでいる。私が彼の姿を視界に捉えてから現在までの間で、すでに3杯。
先輩、私にこれを止めろってことですか。
「えっと、ジャーファル様、水の飲みすぎもよくないんじゃ…」
「いえ、やるからには徹底的にやらないと」
適量って言葉はこの人の辞書にないのだろうか。
そう言えば、ジャーファル様は以前ストレスで胃に穴が開きかけた時も、胃の粘膜保護のために乳製品一色の食事をしていたっけ。ヤギのミルクにバター、あとヨーグルトも食べていた。限度馬鹿なところがあるよね、この人。仕事もその一つだよなぁ、と思っていると、目の前のジャーファル様は水差し1個の水を丸々飲みきってしまった。
素人でも分かる。これ一回に飲む量じゃない。
背中に無言の視線を感じた。
分かった、分かりましたよ。私が止めればいいんでしょ。
めんどうなことはすぐに私に回す先輩達にため息をつきたくなった。
「ジャーファル様、そんなに毎回飲めないので減らした方がいいと思いますよ」
「人間やろうと思えば何でもできますよ」
「いやいや、そんなところ頑張ってどうするんですか」
本気の使いどころおかしいでしょ。
こっそり私達の会話を聞いている先輩達も同じ意見だと思う。しかし、ジャーファル様は自分の行動に疑問を全く持っていないらしく、『何をうだうだ言ってるのですか』と言わんばかりに見てくる。『あー、もう!』と地団駄を踏みたくなった。
しかしここで頑張らなければ、鐘が鳴る度に強制水飲み大会が始まってしまう。すでに第1回を終えたことは、先ほどの先輩のまなざしと現在背中に突き刺さる視線で確信した。それだけは阻止しないと。
「手洗いの回数が増えて、仕事の能率が下がると思います」
水の飲みすぎってなると、まず手洗い問題があるでしょう。そう思い私は口にしたのだが、ジャーファル様の返事は驚きのもので。
「我慢します」
ちびっ子ですか!!何真顔で言ってるんだ、この人は。
「多分別の病気になって医務官の方に怒られます」
『膀胱がピンチですよ』と言うのはさすがに憚られたので『病気』と言う単語で濁しておいた。
すると『病気』という言葉にジャーファル様の眉がひそめられた。よし、今が押しどころだ。
「身体に無理を強いるんですよ。問題ないわけないです」
「そうでしょうか」
「絶対そうです!」
私がジャーファル様の方にずいっと乗り出すと、足が書類に当たってしまい、下から書類の山が崩れる音がした。しかし、そんなことかまってられない。押して押して押しまくれ。
「ジャーファル様が病気になられたら、財務の仕事が止まってしまいます。王の仕事を補佐する方もいなくなりますし。ジャーファル様でなければ王に仕事をしてもらうよう捕縛…ではなくて、説得できません。それに、南海生物が出てきた時にジャーファル様がいないと、国民が心配します。」
あと、何があるっけ。頭をフル回転させ、ジャーファル様がいないとどう困るか切々と語った。
「私達にはジャーファル様が必要なんです!」
何故私は書類に溢れた職場でこんな告白まがいのことをしているのだろう。
そんな思いがよぎったがここで正気に戻ったら負けだ。私はそう自分を律した。
しかし、残念ながら私の熱烈な告白を受けてもジャーファル様は煮え切らなかった。『私は身体を鍛えてありますし、そう簡単に病気には』とか言っている。そういう病気ではないから!何故こんな簡単なことに気づかないの!と、つい私は叫んでしまった。
「ジャーファル様は漏らしたいんですか!膀胱炎になりたいんですか!それとも膀胱破裂ですか!」
一瞬にして部屋が静かになった。私の耳には、皆が私達を見守りながら足踏みをする音が聞こえていたのに、それが止まった。背中に一層の視線を感じる。
まさか、職場でこんなセリフを叫ぶ日が来るなんて。
恥ずかしさと怒りで、限度馬鹿の誰かさんを睨んでいると、バツが悪そうに、『分かりました、水の飲み過ぎにも気をつけます』と返ってきた。
『よろしくお願いします』との言葉と一緒に、すごく申し訳なさそうな顔をするジャーファル様の机に資料を置いて、私はさっさと自分の机に戻った。
戻る最中先輩やヴィゴさんからよくやったと無言で頷かれた。
よくやったじゃない。どうしてくれるんだ。膀胱女とか噂されたら。すでに『カエルを飼っている』とか『セクハラした先輩を、顔が潰れるまで殴った』とか誤解もいいところな噂が流れているのに!
『男よけのいい噂じゃない』と脳内で友人が笑っていた。財務に来てから、自分がどんどん結婚できなくなっている気がする。ちょっとだけ財務に来たことを後悔した。
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