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「ということらしいですよ。ふられちゃいましたね。長官」
「そうじゃーのう。残念じゃが、シノがそういうなら」
シノの元上司であった学問担当長官は笑っていた。彼には彼女の答えが分かっていたのかもしれない。
「ジャーファル殿。シノはいつもどこか一線弾いておりましての。何も深く考えないよう、踏み込まないようにしていたあの子にあそこまで言わせたのです。どうか彼女をよろしくお願いします」
「はい、確かに」
長官の言葉に私は深く頷いた。
シノとしっかり会話ができるようになったのは、彼女が一度目覚めてから一晩経った朝だった。
状況を説明しても実感がわかないのかぽかんとしていたシノに、医務長官とヤムライハがつきっきりで治療にあたったことを伝えるとやっとことの重大さが分かったようだ。
無駄に恐縮する彼女を落ち着けると、笑顔で礼を言われた。
「ジャーファル様も。ありがとうございます」
何に対しての礼かわからず訝しむ私に、目の前のシノはいつものように照れくさそうに笑った。
「たくさん心配をかけたと思いますし、目が覚めた時にジャーファル様がいてくれてほっとしました。だから、ありがとうございます」
彼女の言葉に泣きそうになった。
きっかけはともあれ、原因はシノを無理無理財務に移したことにある。
彼女はそんなこと欠片も思っていないのだろう。青白い顔で笑うシノの顔を直視できなかった。
シノは財務に必要な人間である。それは疑いようもないが、彼女をこのまま財務にいさせてよいのか迷いがあった。
そんな折、学問担当長官から話があった。彼女へ選択肢を与えてやって欲しい。席だけ戻すなど対応は色々できるはずだと。
確かに長官の言う通りだ。シノを守れなかった以上、私に反論のすべはない。
そして、それ以前の問題として、彼女が引き続きここで働こうと思えるのか私には分からなかった。命が脅かされるような怪我をしたのだ。シノが何を考えているか知りたかった。
話は彼女が学問担当で懇意にしていた青年に頼むことにした。
『直接聞けばよいと思うのですが』と乗り気でない彼を『シノの体調や話の流れ次第では聞かなくてもかまわないから』と頭を下げ、ようやく頷かせた。
渋る彼にそれでも無理矢理頼んだのは、上司である私達が訪ねても彼女は本当のことは言わないだろうから。
自分でシノの本音が聞きたい。
上司と部下の隔たりがもどかしかった。
「私、最初、文官になったとき三食昼寝付きの職ゲットくらいにしか思っていなかったんですよね」
「昼寝はついてねーだろ」
扉越しに聞こえてくる声を一言も聞き漏らすまいとしていた私と長官の耳に届いた会話は気が抜けるものだった。
国を支える文官としてその発言はどうなのか。シノらしいと言えばらしいのだが。
聞こえないように私はため息をつき、長官は苦笑しながら長く伸びた髭をなでた。
「もちろん、寺子屋設立には尽力するつもりでした。でも、それはあくまで自分のできる能力の範囲で、だったんですよね」
「だよなー、お前向上心とか少ないもんな」
先輩である青年の言葉に、『嫌な言い方しないでくださいよー』と返している。唇を尖らして文句をぶつぶつと言っているのだろう。最近私にも見せるようなった仕草が目に浮かぶ。
『まぁ、否定しませんけどねー』と聞こえてくるシノのセリフに頭を抱えたくなった。なんとひどい心根だ。よくこんな子を採用したもんだ。
「でも、ジャーファル様はそんな私の重い尻を蹴飛ばすがごとく限界ぎりぎりの仕事をふってきたんですよね」
働かないものに給金を払う馬鹿はいない。いるものは使う。ましてや、仕事に活かせる能力があるものなら尚更だ。
「自分の能力とか考える暇すらなかったです。『やれますか?』ではなく、『やってください』だったんで…しかも、その笑顔、すごく怖かったです。目は血走ってるし、クマは鬱血したみたいに紫だし」
「財務って修羅場中まじ怖いもんな。俺、月末はぜってー財務部屋近づかないようにしてる」
シノや青年の言葉に少し驚く。修羅場の時はいつもより多少話しかけづらい雰囲気になっている自覚はあるが、そこまでひどく思われていたとは。
『そこまでではないですよね』と隣の長官に視線で同意を求めると、目を細めて笑われた。相当ひどいらしい。
「ぶっちゃけるとですね、ジャーファル様が怖くて、そんな量できないって言えなかったんですよね」
そう言えば最初の頃は仕事を渡す度に引きつった笑みを浮かべていた気がする。
「でも、とりあえず死に物狂いでやったら、なんとかなったんですよ。で、ほっとしていたら、次に渡される量、増えてるんですよ。この人は鬼かと思いました。でも、これまたやったらどうにかなったんですよね」
当たり前だ。できない量をふったことなんてない。作業の質も速度もムラがあるシノをどうすれば上手く使えるか私なりに頭を悩まして仕事を回していたのだ。
経験が少ない彼女を潰さないよう細心の注意を払った。酒の席で部下に『ひいきですよー』と愚痴を言われるくらいに。
「そんなのを繰り返していくうちに、こなせる量は増えてるし、仕事のできも良くなっているんですよね。で、やっと気づいたんですよ。ちゃんと見てくれてるんだって。この方に渡される仕事は頑張ればできる。なら、やってやろうじゃんって」
「すっげー単純だな、お前」
「うるさいですね」
ある時から、仕事を渡す際のもの言いた気な視線がなくなったのはそれか。
仕事を投げっぱなしにしている他の財務官達とは異なる対応に気づかないほど疎い子ではない。しかし、いざ本当に気づかれていたと分かると何か気恥ずかしい。また、それに答えようとシノが頑張ってくれていたことが嬉しい。
「だからあの方の一見無茶と思える仕事もこなす。私なら出来るとふってくれるから。任せてくれるから。できないって言いたくないんです。あの方の期待に答えたいんです」
シノがそこまで思っていてくれているとは思わなかった。
気がつくと目頭が熱くなっていた。
「だから今の仕事を終えるまでは学問担当には戻れません」
シノの凛とした声が耳に届いた。
ここ数日、彼女を財務にそのまま置いておくかどうかで悩み、鬱鬱としていた暗い気持ちはシノの言葉にあっさり吹き飛ばされた。
私の中に安堵感が広がった。
「私が怪我をしたのは私のせいで、あの方が気を止む必要はないんですけどね。先輩、ジャーファル様に聞くよう言われました?」
聞きたいことが聞けたと、長官と扉の前から離れようとした時だった。
聞こえてきた自分の名前に私は足を止めた。
嫌な汗が背中を流れた。
不自然な沈黙が扉の向こうで続いた。彼はどう答えるつもりか。
「………お前そういうのは気づいても黙っておくのがマナー。でも、はずれ。爺様の方」
確かに選択肢をと言い出したのは長官だが、頭を下げわざと彼が断りづらいようにしたのは私だ。彼の気遣いに心から感謝した。『ばらされてしまいましたのー』と長官は眉を少しあげて笑っている。
「そっちかー、まぁ、どちらにしても今の話、人に言っちゃダメですよー。なんか語りすぎちゃいました。恥ずかしい。とにかくもっともっと頑張らなきゃ、色んな方に顔向けできないです」
戻るという選択をとらなかったこと
、私の配慮に応えようとしてくれていることがただただ嬉しかった。
なら、私は可能な限りシノが他に気を取られることなく仕事ができるようにしよう。
「私、ジャーファル様ともっと働いていたいです」
シノの願いに心が踊った。
私もだ。君を手放したくない。
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