35
数か月前まで自分の隣の机で働いていた後輩が何やら爆発事故に巻き込まれたらしい。何やってんだか。生死の境をさまよったとか、医務長官が呼ばれたとか様々な噂が流れたが、どうせあいつのことだ。ちょっと怪我したくらいで、『久しぶりにゆっくり寝られます』とか言って惰眠をむさぼっているに違いない。
本人が聞いたら失礼なと抗議する予想をしながら、シノの部屋の扉を叩いた。
「よぉ…」
返事が来る前に扉を開けると、慌ててベッドの中に何かを隠す後輩がいた。
顔を上げたシノと俺の視線が交わる。
「………」
「………」
「あー、俺なんかまずい時にきた?」
『春本読んでたなら悪かったな』と言外に伝えると、『違いますよ、セクハラです』と枕が飛んできた。
「で、先輩手ぶらですか。ジャーファル様はパパゴレッヤのジュースとか作ってきてくれるのに」
枕をシノに戻し、ベッドサイドの椅子に座ると早速見舞いの品を要求された。相変わらず図々しいな、こいつ。
「お前、八人将に何させてんだよ」
「いやー、私もそう思ったんだけど、あの人料理めっちゃ上手なんですよね」
『おふくろの味ですよー』と言う後輩の顔は以前会った時に比べ、明らかに青白く痩せていた。ゆったりとした長袖から見える手首も一回り細くなった気がする。
「へー、見かけによんねーなぁ」
俺は普通にしゃべるふりをしながらこっそりとサイドテーブルを見やった。おそらく薬が入っていたであろう碗。縁に緑の液体がこびりついている。
薬嫌いなこいつが素直に飲むとは。
俺が噂と思っていたものは、全てが全て噂ではなさそうだ。後輩のこんな姿を見てしまったせいで本当は言わずに立ち去るつもりだった言葉が、俺の口からこぼれでた。
「シノ、もどってこねー?」
「へ?」
俺の急な誘いにシノは何のことか分からず不思議そうに首をかしげた。
「だから、学問担当に戻ってこないか?思いの外財務、危険そうだし?」
そう言って、今度は分かるようにサイドテーブルに視線をやると、シノは困ったような表情をした。
「いやー、これは私の身から出たさびですよ。むしろ、申し訳ないくらいで。仕事止めちゃったし」
心底悪いと思っているらしく、肩を落としている。
「お前なぁ、自分の心配しろってーの」
「いやいや、私の身も大切だけど、仕事が止まると最終的に何百何千って人に迷惑かけますし」
「おぉ、見事お前も仕事人間だな。財務すげー」
人間って数カ月でこんなにも変わるものか。学問担当部屋で3時にしっかりおやつを取り、定時にきっちり仕事を終わらせ帰宅していたこいつが。さすがジャーファル様率いる財務担当。性格矯正もお手の物らしい。
「失礼な、学問担当の時からこうでしたよ」
「そうか、よく黒秤塔でさぼってるのみかけたけど」
「あれはさぼりではなく調べ物です。下準備にどれくらい時間をかけるかで仕事のできが変わってきますから」
俺としては、『シンドバッドの冒険書』が、仕事のできにどう影響を及ぼすか是非とも知りたいな。
どう考えたってさぼりだ。が、今それを追求しても意味はないので、本題に話を戻した。
「で、どうする?帰ってきたら、もちろんお前に寺子屋推進企画返すけど」
『寺子屋』という言葉を聞き、シノの動きが止まった。そして視線を少し彷徨わせ、眉間には豪快に皺をよせている。久しぶりに見るその表情は、寺子屋の仕事をする際によくしていたものだ。俺はこの表情、けっこう好きだったりする。
自分の中で納得する結論が出たのか、俺にしっかりと視線をあわせたシノ。その顔は少し嬉しそうだった。
「ありがとうございます。でも、財務でもう少し頑張ってみます。寺子屋推進企画も自分の手で進めたいんですけど、今の仕事が楽しいし、正直放っておけないんですよね」
仕事を放っておけないだと。ほんと、お前誰だよ。
「それにですね、ジャーファル様の要求っていつも無茶苦茶なんですよ。出来るか出来ないかいつもぎりぎりのところで。仕事ふるのめちゃくちゃ上手いと思います。で、その要求にこたえているうちに出来ることが少しずつ増えていってるんですよ。それが嬉しいというかなんというか」
照れ臭いのか視線がふらふらしているし、布団を掴む指が落ち着きなく動いている。
まさか、シノがこのように仕事を語るとは思っていなかった。寺子屋企画については思うところがあったのか、やけに気合が入っていたが、基本いつものんびりたまにだらだらのこいつが。
今俺の目の前で『それでジャーファル様がですね』と熱心に仕事の話をしている。俺の中のシノは学問担当の頃で止まっていたが、しっかりと進んでいたらしい。
少し焦りすぎの気もするが、今までがのんびりだった分、いい傾向なんじゃないのか。後輩の成長は俺にとっても嬉しい。それが自分の担当ではなく、財務だったというのは少し悔しいが。
「なんか語りすぎちゃいましたね。恥ずかしい。とにかくもっともっと頑張らなきゃ、色んな方に顔向けできないです」
似合わないことを言って少し顔が赤くなっている。普段なら茶化すところだが、今回は見なかったことにしてやる。
「まぁ、戻ってきたくなったらいつでも言えよ」
以前なら『誰が帰りますか、出戻りなんて勘弁です』と可愛くない返事が戻ってきたのだが、『ありがとうございます』と素直に礼を言われた。嫁に出た妹が帰省したら、しっかり一人前になっていた気分だ。
「それじゃ、俺そろそろ戻るわ」
「えー、暇なんでもっといましょうよ」
話すべきことは話した。そろそろ戻らないと怒られる。
「俺、仕事あんの」
「どうせいつもさぼってるじゃないですか」
「おい。てきとうなこと言うな。俺は日々真面目に仕事に励んでるから」
『そんな見え見えの嘘つかなくても』と呆れた目をしているシノを睨んで黙らし、俺は部屋を出た。
いや、ほんと怒られるからやめろ。
[
back]